江戸っ子は喧嘩っ早く、見ていて面白い。火事が多いせいで、火消しの動きがキビキビしていて見惚れてしまう。
そんな意味ですね。
確かに、たくましい筋肉もあらわとなる火消し衣装は格好良く、そこに彫られた刺青も鮮やか。
女性たちはうっとりとした目で、彼らを眺めたと伝わります。
さらに火消し同士の喧嘩は、江戸っ子注目の的でもあり、歌舞伎の題材にまでなったほどでした。
そんな粋な火消し「を組」の頭だった人物が、幕末史において名を残しています。
明治8年(1875年)9月19日に亡くなった新門辰五郎――。
実は、徳川慶喜とも非常に関係の深い人物ですが、残念ながら大河ドラマ『青天を衝け』では全く登場しませんでした。
いったい彼はどんな人物だったのか? その生涯を振り返ってみましょう。
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「を組」の頭、辰五郞
幕末に名を残した人物の中でも、おそらく彼は最年長の部類に入るでしょう。
辰五郞は、寛政12年(1800年)頃、江戸の中村家に生まれたとされています。
実家が燃え、錺(かざり)職人だった父が焼死してしまうという、なんとも不幸なカタチで火事との縁が出来た辰五郞は、火消しの道に進みました。
色白で酒が好き、器が大きいけれども、火消し同士の喧嘩ならば一歩も退かない。そんな典型的な江戸っ子だった辰五郞。テキパキとした男で、火消しとしての才覚は確かなものでした。
辰五郞が名をあげたのは、文政4年(1821年)のこと。浅草で起きた火災現場で纏を立てたところ、さる大名火消しが「を組」の纏を倒したのです。
頭にきた辰五郞は、大名火消しを纏で殴り、相手の纏ごと転落させました。
慌てた「を組」の頭領・町田仁右衛門が、仲裁に入ってその場は収まりましたが、怒りの冷めぬ大名火消し側は、下手人を出すように迫ります。
そこで辰五郞は、なんと大名屋敷まで乗り込んで、胡座をかいて座ると、こう啖呵を切ったのです。
「俺ァ逃げも隠れもしねえ! 勝手にしやがれ!!」
まるで漫画ですよね。相手は辰五郞の気迫に圧倒され、何もできませんでした。
かくして大名火消し相手に一歩も退かず意地を貫いた話は、あっという間に火消したちの中で話題になり、日頃から辰五郞を気に入っていた頭領の仁右衛門は、ますます彼に惚れ込みます。
文政7年(1824年)、仁右衛門は娘の錦を彼にめあわせました。
こうして辰五郞は仁右衛門の娘婿となり、文政7年(1824年)に「を組」を継いだのでした。
大名火消しと大乱闘
江戸っ子、しかも火消しとなれば、ちょっとやそっとで退いたら男が廃る。弘化2年(1845年)、辰五郞にまたしてもそんな局面が訪れます。
北風が吹き荒ぶ1月、町火消し十番組を率いた辰五郞は、現場に駆けつけました。
「なんだあ、この野郎! どきゃあがれ!」
「どけとはなんだ!」
今度も相手が悪かった。
これまた気性の激しいことで知られる大名火消しだったのです。
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大々的な喧嘩に発展したこの争いでは死傷者まで出てしまい、辰五郞は責任を問われます。そして「江戸払」(江戸からの追放)の罰を受けてしまいました。
それでも辰五郞はしょっちゅう江戸に足を運びます。妾がいたのです。
毎日こんなことをしていたものだから、命令違反が発覚。反省の色がない不届き者として、佃島の人足寄場(今でいうところの更正施設)に送られられてしまうのでした。
牢屋で火災を消し止め、「遠山の金さん」に認められる
弘化3年(1846年)、辰五郞の収監された牢で火災が発生しました。
江戸時代、牢で火災が発生した場合「切り放ち」という処置がとられました。火災の際に囚人を解き放ち、罪を一等減刑し、戻らぬ者は減刑無しとする制度です。
この処置は「明暦の大火」(振袖火事)の際、牢屋奉行の石出帯刀吉深が、囚人を解放したことが始まりとされています。
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このとき辰五郞は、もう一人の仲間とともに、たった二人で牢に留まりました。火の粉を浴びながらも果敢に消火活動を行い、油倉庫への類焼を防いだのです。
活躍は、「遠山の金さん」のモデルとされる北町奉行・遠山景元の耳に入りました。
「流石は火消しの頭である」
辰五郞は特赦を認められ、火消しとして名声を高めました。
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