小説家の山田風太郎に『人間臨終図鑑』(→amazon)という著書があります。
歴史に限らず様々な分野の著名人がいかにして死んでいったか?
1978年から雑誌に連載されたもので、今回注目したいのは徳川慶喜の項目。
慶喜につけられたアダ名「豚一」を引き合いに出し、将軍退任後の「子作りにおいても異名どおりだ」と辛辣さに満ちた指摘をしているのです。
三十歳で波瀾万丈の「最後の将軍」の運命を終えた慶喜は、そのあと四十六年間の余生を持ったが、側妾群(その中には侠客新門辰五郎の娘もいた)に、男十人、女十一人の子を生ませることで人生を過した。
幕末に彼が「豚一」という異名をつけられたのは、ハイカラで豚肉を食うという意味からだが、子供の製造のほうでもこの異名はあたっているのではないかとさえ思われる。
そして、彼に対する勝利者明治天皇よりあとまで生きて、大正二年十一月二十二日、自分の伝記『徳川慶喜公伝』の原稿を読んでいるうち、極楽往生をとげた。
彼は数日前から風邪をひいていた。
もともと辛辣な文章が持ち味の山田にしても、この『人間臨終図鑑』はかなり痛烈。
「さすがに酷すぎない?」という指摘がありそうな一方、「なぜ山田はここまで批判したのだろう?」という疑問も湧いてくるでしょう。
激しい批判をするからには相応の理由があるはず。
では一体それは何なのか? 慶喜は明治以降に何をしていたのか?
大正2年(1913年)11月22日は徳川慶喜の命日。
将軍職を退いてから46年間という長すぎる余生を送った、慶喜の歩みをたどってみましょう。
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血で血を洗う闘争から身を遠ざけた慶喜
はじめに断っておきますと、山田は歴史を知らないため徳川慶喜のことを辛辣に批判したワケではありません。
むしろ逆。
彼は『魔群の通過』という【天狗党の乱】を扱った作品を書いています。慶喜の出身・水戸藩の話です。
あるいは明治時代を舞台にした他の作品では、会津藩や旗本が主役という話も多い。
彼らにしてみれば、家臣に戦いをけしかけておきながら自分だけ戦場から逃げ出し、気候温暖な静岡でのうのうと子作りに励む慶喜が「豚一」であっても不思議はありません。
なんせ、幕臣たちが奔走して慶喜の命を助けた【江戸城無血開城】のあと、公方様を守るべく集っていた彰義隊は【上野戦争】で死屍累々となっています。
あるいは身柄を預けられた故郷の水戸藩では、天狗党と反天狗党(諸生党)の闘争が再燃し、地獄と化した。
と、他にも枚挙に暇がないほど、数多の幕臣・佐幕派たちが辛酸を嘗めさせられています。
そんな慶喜は江戸を逃げ出した後、どんな暮らしだったのか?
慶応4年(1868年)7月、首が繋がったまま、まんまと戦場や逃げ出した慶喜は、銚子から海路静岡へ向かい、宝台院に入りました。
徳川家康の側室であり、徳川秀忠の母である西郷局(お愛の方)の菩提寺です。
そこでは、薄暗い六畳間に座る慶喜を見て、渋沢栄一が涙を落としたとされます。
一方、戊辰戦争は明治2年(1869年)の【箱館戦争】まで継続。
大久保利通は慶喜を函館に派遣し、榎本武揚と対峙させようとしますが、反対にあい実現には至りません。
結果、5月まで内戦は続き、それから約5ヶ月後の10月、勝海舟や大久保一翁の尽力により、慶喜の謹慎が解除されました。
元代官屋敷に移ると、正室・美賀子も訪れています。
慶喜は33歳で、2歳上の美賀子は35歳です。夫婦には生後まもなく亡くなった女児が一人しかおりませんでした。
新門辰五郎の娘・芳のような京都で迎えた妾は、維新を経て実家へ戻されています。
明治4年(1871年)になると明治政府は【廃藩置県】を実施。
徳川家は駿府70万石の大名という地位を失い、当主の徳川家達は東京へ移住しました。
しかし、勝の提案で、慶喜は駿府にとどまります。
渋沢は、勝があまりに押し込めすぎると苦々しく回顧しており、そのため当時は、勝の一存で慶喜の去就が決まっていたことが伺えます。
それでも明治5年(1872年)には、無位無官から従四位に叙せられました。
このとき、松平容保や永井尚志ら30余名も許され、榎本武揚も釈放。
幕末~維新の騒乱が、ようやく一段落着つきました。
かくして慶喜の、長く多趣味な余生の始まりです。
ありのままに生きる
2010年代に「リア充爆発しろ!」というインターネットスラングが流行しました。
慶喜の余生とは、まさにそれ。
駿府に移住した幕臣にせよ、荒れ果てた土地に生きる東北諸藩にせよ、北海道の屯田兵にされた東北諸藩士にせよ。
生きるだけで精一杯だったのが、彼らの明治初期です。
それが慶喜の場合、生活には全く困りません。
静岡に移住した幕臣たちが、サツマイモ、お茶、野菜に果物まで献上。
大根という“庶民の味方”まで差し出されていたのですから、慶喜にしても多少は額に汗して共に働いたのであろう? もうお殿様じゃないんだし……と思いきや、彼は趣味に生きます。
しかもその内容が「現代のセレブライフか!」と突っ込みたくなるラインナップで……以下に列挙してみましょう。
銃猟
釣り
鷹狩り
弓術
囲碁
将棋
投網
鵜飼
謡曲
能
小鼓
洋画
刺繍
写真
自転車
自動車
ビリヤード
講談鑑賞
落語鑑賞
映画鑑賞
レコード鑑賞
アイスクリーム作り
寺社仏閣巡り
旅行
︙
︙
全国の自治体にある文化センターの講座一覧ではありませんよ。
いずれも慶喜の優雅な趣味であり、例えばアウトドアな趣味となると、お殿様らしい失敗をやらかしています。
獲物を追って狩猟に励み、田畑を荒らし、地元の農民をカンカンに怒らせたのです。家臣らが奔走し、賠償で決着がついたものの中々揉めたとか。
同様に自転車で乗り回して抗議を受け、またまた家臣が奔走したこともありました。
それでもノホホンとした慶喜に、家臣はこう漏らしたと言います。
「“貴人情けを知らず”とは、まさにあの人のことだ……」
庶民の生活を破壊する。その尻拭いを家臣にさせる。人情ってもんがなさすぎるだろ! そんな嘆きです。
狩猟服姿は写真にも残っていて、明治初期でこれほどの“リア充”は慶喜くらいではないか?と思えるほど。
極めつけは子育てでしょう。
これが不思議というか何というか……人によっては冷酷にも見える育児を実践しています。
例えば明治4年(1871年)に、女中二人(新村信と中根幸・旗本の娘)に子供を産ませると、里子に出したのです。
明治以降に子を産ませた女性は、側室ですらなく実質的には女中であり、生まれてすぐに亡くなった子以外の子は全て出しています。しかも庶民の家にです。
これは父の徳川斉昭も同じ傾向があり、一人しかいない正室は丁寧に遇する一方、子を産ませた女性とは身分差のある扱いをしています。
もう将軍・御三家の身分でないからには、世間の風に当てたかったのか。
あるいは、その方が長生きするかと思ったのか。
確かに当時は里子の風習があったとはいえ、全ての子を出してしまうのは常人の理解を超えているでしょう。
明治以降の慶喜は、幕府や武士としての“枷”が無くなり、彼本来の性格が出現したのかもしれません。
慶喜は身分や格式に構いませんでした。
身分の違いがあっても相手を「近う、近う」と呼びかけたという話が残されています。新門辰五郎のことは「ジジイ」と親しみを込めて呼んでいたほど。
ナポレオン3世が贈った軍服を着こなすことにも抵抗がない。そういう格式ばったことにこだわりのないところがあります。
後年、健康に効果があるとなると、食中毒の危険性を確認してから、牛乳も飲んだとか。
一人の人間として徳川慶喜を見た時、明治以降の方が魅力的に思えます。
幼少期は、パワフルな父・斉昭から期待という名の圧力をかけられすぎて、屈折していたのかもしれません。
政治家として生きていた歳月は、誰よりも彼自身が『幕府はもうもたない……』と気づいていたとされます。
薄情なれど聡明であるがゆえに、己が火中で栗を拾い続けていることを痛感している――そんな孤独は誰にもわからなかったことでしょう。
世間の目から解き放たれた彼は、あのディズニー映画ヒロインも連想させます。
『アナと雪の女王』のエルサです。
王冠を投げ捨て、己の力を活用し、ひたすらクリエイティブに生きる。ありのままに生きる彼女は、生き生きとしていたものです。
明治の慶喜とは、王冠を捨てた後のエルサのように、ありのままの姿を見せてきます。
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