こちらは2ページ目になります。
1ページ目から読む場合は
【明治以降の慶喜】
をクリックお願いします。
お好きな項目に飛べる目次
お好きな項目に飛べる目次
徳川宗家には頭が上がらない
慶喜に家族愛がなかったわけではありません。
明治以降の慶喜は、苦労をかけた妻・美賀子と、母・登美宮(吉子女王)を極めて丁寧に遇しています。
この二人は皇室にゆかりがあります。幼い頃の慶喜は、母方の血統からこう名乗っていたといいます。
「私は有栖川宮の孫であるぞ」
そんな母は、殺伐とした維新の水戸藩で苦労を重ねてきました。親孝行をして、温泉旅行もしたのは当然のことでしょう。
身分が高い彼女は、新婚当初は精神状態が著しく悪化するほど、慶喜と不仲でした。これも罪滅ぼしせねばならないと考えてもおかしくはありません。
妻が乳がんに罹ると、慶喜は最先端の医療により、苦痛を和らげようとしたのでした。
さらには感情抜きにして、格式的に重んじねばならない人々もいました。
徳川家達を頂点とする徳川宗家です。
慶喜はそもそも分家筋であり、正統性が薄いとされながら担ぎあげられ、そのせいで無駄な政争である【将軍継嗣問題】が発生した経緯があります。
幕臣たちですら「実質的な最後の将軍は14代・徳川家茂だった」と振り返っているほど。
ピンチヒッターとして将軍になって、勝手に【大政奉還】をした。そう白眼視されていてもおかしくはありません。
慶喜自身、そのことを理解しております。何があっても宗家に失礼がないようにと、子どもたちにも言い聞かせておりました。
身分も上だし、経済的にも宗家から分け与えらているという関係が成立しています。
明治35年(1902年)の公爵受爵まで、待たねばなりません。
天璋院篤姫と静寛院和宮への感謝も忘れることはありませんでした。
東京転居後は、命日になると、どんな天気だろうと、和宮の墓参りは欠かさなかったといいます。
いくら酷薄な人物でも、自身の助命に動いてくれた人物のことは忘れられなかったのかもしれません。
とはいえ 納得できない者もいる
無責任な振る舞いを平気でする一方で、礼を尽くす節度は一応持ち合わせている。
それでも、やはり、苦い話も浮上してくる。
一体なぜなのか。
生活苦に悩まされた旧幕臣や東北諸藩の面々が、趣味に生きる慶喜を苦い目で見たことは当然のことでしょう。
幕臣たちは直接の主君に対し、一定の遠慮もありますが、会津藩士あたりはそうでもありません。
永井尚志との面会を拒んだ話や、勝海舟の最晩年まで面会をしなかったことも、不義理恩知らずの象徴のように語られます。
これには慶喜なりの事情もあるのでしょうが、良くも悪くも彼は言い訳しないため、真相は不明です。
慶喜は、説明不足ではないか、感情表現が不器用ではないかと思えることもしばしばあります。
【大政奉還】ですら、周囲に意図が理解されていたとは言えないでしょう。
「あれは欧米列強の介入を避けるための英断だったんだよ!」
というのは慶喜ファン定番の言い訳であり、元を辿れば渋沢栄一あたりの意見ではないでしょうか。
慶喜の助命に関しては、イギリスのパークスが新政府に深く介入しています。
「いや、大政奉還は一か八かの大ばくちだったのでは?」
といった解釈もなされます。
実のところ、当の本人の意向がわからないからには、今後も研究を進めていくほかない状況。
饒舌とは言えない慶喜については未解明のことも多く、本人の意図については推察しながら追う必要があるのです。
例えば明治10年代あたりは、政治的な話題を極力避けていることが伺えます。
明治維新は強引な出立でした。
新政府は東北諸藩の再起の芽を摘むべく、強引に【戊辰戦争】を起こし、インフラ整備も後回しにしている。
精神的支柱となり得る城も片っ端から壊し、【廃仏毀釈】という悪行まで手をつけた。
しかし、不満があったのは敗者側だけでもありません。
政府の強引なやり方についていけない【不平士族の乱】が続発し、以降【西南戦争】まで続きます。
政治家の暗殺により世直しを図る姿勢も抜けず、その後、大久保利通は凶刃に斃れました。
維新三傑のうち、二人までもが自然死を迎えられなかったのです。
そんな時代に、慶喜が政治的な言動をするのは危険極まりない。そのため私的な席で政治情勢について意見を求められても一切答えなかったのです。
趣味への耽溺にせよ、新政府サイドの人々を油断させるためだとすれば、うってつけの偽装といえましょう。
明治7年(1874年)、当時の新たなメディアである『東京日日新聞』には、こんな見出しの記事まで書かれる始末でした。
「スクープ! かつての15代将軍、自ら鍬をふるって百合栽培のワケ」
明治初期のジャーナリズムとは高等でもなく、現在の週刊誌のような覗き見趣味もあったものです。そりゃ、こんな記事があれば売れたことでしょう。
記事を読んだ政府関係者は、
「なんだ慶喜、バカになったもんだ」
と、かえって安心したのではないでしょうか。そう考えれば、慶喜なりに時代に即した生き様とも言える。
うつけを装ったロハスライフ――ゆえに、その存在感が薄れてゆくと、言動も自由度が高まってきます。
明治15年(1882年)、慶喜は当主の座を4男・厚(8歳)に譲り、隠居となりました。
そういて華族当主ですらなくなると『朝野新聞(ちょうやしんぶん)』を取り始めます。
好奇心があれど、身の処し方を踏まえここまで我慢してきたとすれば、慶喜の処世術は一流と言えるのかもしれません。
※続きは【次のページへ】をclick!