2027年大河ドラマ『逆賊の幕臣』において、青木崇高さんが演じると発表された栗本鋤雲。
横須賀市平和中央公園には、栗本鋤雲と小栗忠順の銅像として並んでいます。ドラマでもこの二人が並ぶ場面は多いことでしょう。
この役を演じる青木さんは、キャストの中でも大変な苦労があるかと思われます。
それというのも、フランス語を習得する必要があるのです。
アメリカとの開国後、幕府は押し寄せる西洋列強の前で外交方針を決めねばなりませんでした。
オランダはつきあいは長いとはいえ小さい。ロシアとイギリスはあまりに危険。アメリカは南北戦争が勃発してしまう。
そんな幕府にフランスという選択肢を示したのが、この栗本でした。左遷されて蝦夷地にいた彼は、フランス人宣教師であるメルメ・カションと交流があったのです。
キャラクター性も、青木さんが演じるに足るだけの個性に溢れています。
彼は『べらぼう』でも印象的だった長谷川平蔵の親族にあたります。
文武両道なのに反骨心が強すぎて、昌平黌を追い出されてしまうわ、蝦夷地に左遷されるわ。
幕閣に復帰すれば、医師という身分から大抜擢され、怒涛の出世を遂げ、外交の最前線に立つ。
そして盟友である小栗忠順とともに、幕府の近代化を勢いよく進めてゆきます。
これほどまでの人物でありながら、青木さんは演じるまで知らなかったとのこと。
それはなぜか? 忘れられてしまったのです。
明治になってから、鋤雲は出世や名声を捨てました。かわって彼が選んだのは、悲劇的な最期を遂げた小栗との約束を守るような生き方でした。
小栗と鋤雲は、もう幕府は持たないことくらい、十分わかっていました。
それでも新聞社を興し、世論を動かし、後進の若者を育てていこうと語り合っていたのです。
明治の鋤雲は、そんな友との誓いを守るジャーナリストとして生き抜きました。
だからこそか、彼にはゆるせない人物がいました。
『逆賊の幕臣』で小栗のライバルとして描かれる勝海舟です。
旧幕臣同士の会合があれば、容赦なく勝に雷を落とす。アンチ勝海舟筆頭として、筆をふるい、勝批判を繰り返しました。
そんな彼の熱い生涯をふりかえってみましょう。

栗本鋤雲/wikipediaより引用
昌平黌から追い出された豪傑肌・栗本鋤雲
文政5年(1822年)、幕府の典医・喜多村槐園(きたむら かいえん)に三男が生まれました。
幕末に活躍した人物としては年長の部類に入る栗本鋤雲その人。
幼き頃より頭脳明晰であり、天保14年 (1843年)、幕府の最高教育機関である昌平坂学問所(昌平黌・しょうへいこう)に入学すると、あまりの秀才ぶりに周囲からこう呼ばれます。
「お怪け喜多村(おばけきたむら)」
背が高く大柄、見た目はスマートなタイプというよりは、まるで侠客か豪傑のよう。頭が良いだけでなく迫力もある。
江戸時代は髭を伸ばすことはあまり一般的ではありませんでしたが、栗本は例外です。
フランス渡航時に撮影されたその顔は、もみあげと髭が繋がり、歌川国芳が描いた『水滸伝』の魯智深や、『三国志』の張飛を彷彿とさせるいかつい風貌をしています。
青木崇高さんは大河ドラマにおいて弁慶や木曾義仲を演じております。豪傑肌の鋤雲にも実にふさわしいキャスティングです。
彼のあだ名は「おばけ」でした。背が高く、見るからに豪快、醸し出す雰囲気も只者ではなく、成績優秀。まさしく化け物級の人物でした。
かような鋤雲ですから、杓子定規な規範には収まるわけもありません。
過激な言動と批判が過ぎて昌平坂学問所を退学。
昌平坂学問所のすぐ側に私塾を開き、門下生十数名と貧乏暮らしを送ることになると、おかずどころか米も味噌も買う金がなく、塩で煮た大根と塩辛ばかりで過ごす羽目に……。
嘉永元年(1848年)、27歳で貧乏暮らしは終わりを告げます。
奥詰医師・栗本家の養子として家督を継いだのです。
継ぐ家のない三男としては実にありがたいこと。これで生活は安定したものの、刺激がどうにも足りません。豪傑肌の鋤雲としては、ちょっと物足りない。
それに、彼の医者という身分も中途半端ではあるのです。
武士ではなく、身分としてはやや低いのです。同時代では長州藩の久坂玄瑞も医者となります。この身分差を覆すためにも、勤勉努力とアピール力、そして実力が必須とされます。
ましてやこの激動の時代、なんとしても海軍に関わりたいと身分秩序を超えた行動をしたくなっても、致し方ないことではあったのでしょう。
そんなとき、長崎の海軍伝習所から軍艦「観光丸」が江戸までやって来ました。

観光丸/wikipediaより引用
「観光丸」はオランダ国王・ウィルヘルム2世から寄贈されたスームビング号が前身であり、伝習所が改称していたのです。
ここに第一回伝習生である矢田堀景蔵が乗り込んでいました。
彼は鋤雲の私塾出身。そんな縁もあり、鋤雲は早速観光丸に乗り込みました。
しかし、これに対し御匙法印(おさじほういん)・岡櫟仙院(おか れきせんいん)が激怒します。
将軍の主治医であり、幕府のトップ医師とされる人物。
「オランダの技術を褒め称えるなぞ、けしからん!」
そんな怒りに触れて鋤雲は蟄居を命じられてしまいます。
函館で花開く才智
幕府は無能。
海外事情も知らず、頑なに鎖国にこだわった。
ゆえに明治維新によって倒された――。
世間にはそういう誤解がありがちですが、実際はそんなことありません。
幕府は、ペリー来航前から、海外への対処に当たっていました。
何も知らないのはむしろ政権奪取をした志士たち側で「攘夷」と叫ぶだけで対外政策の具体的なアイデアはありません。
まぁ当たり前の話です。政権を握っているのが江戸幕府なのですから、多くの情報を精査する準備はしていました。
当時の幕臣たちが危険視していたのは、実のところアメリカではありません。
ハリスは「イギリスよりも我々相手に開国したことはラッキーでしたよ」と恩着せがましいスピーチをしましたが、あながち誇張とも言い切れないのです。
当時のアメリカにとって最大の狙いは、捕鯨船の安全な航行と、東アジアの資源とそれを得るためのです。
関税はじめ条件も、清をさんざん痛めつけてきた前科あるイギリスほどあくどくもない。
幕府からの使節団は友好的に大歓迎をしましたし、榎本武揚ら留学生受け入れも表明していました。
しかし、使節団が帰国した後南北戦争が勃発してしまい、日本とは距離が空いてしまいます。
幕府にとって、危険視していたのはアメリカではなく、むしろロシアとイギリスです。
ロシアは江戸時代以降で、日本に接触してきた西洋列強としては最も早い。そうはいっても目的は植民地化ではなく、貿易のための航路確保ではありました。
田沼意次と松平定信以降、幕府はなんとかしてロシアと交渉しようとするものの、『べらぼう』で描かれたように頓挫してしまいました。
そのうち、ロシアという脅威は大きくなるばかりです。アメリカから帰国した小栗忠順は、対馬藩に突如現れたロシア戦艦ポサドニック号相手の交渉に苦慮していました。
すると、この対馬にイギリス艦が出現したことで、ロシアは引っ込んでゆきましたが、幕府にとっては頭痛の種が増えただけでした。
このイギリスの危険性は、フェートン号事件と阿片戦争の時点で幕府はよくわかっています。
対馬におけるポサドニック号の一件は、前門の狼を、後門の虎の威を借りてなんとか解決したようなもの。この事件の対応にあたった小栗忠順はそのことを痛感させられたでした。
このときのロシアとイギリスは、世界各地で火花を散らしていました。チェスにたとえた「グレートゲーム」と呼ばれる世界規模の覇権争いが、日本にまで及んできたのです。そうなるとロシアは開港と貿易権益だけを狙っているわけではない。イギリスの牽制を狙い出しています。
そのことがあらわになった舞台が対馬です。そして北にも、長年ロシアが手を伸ばしてきた地域があります。
それは蝦夷地と樺太です。対ロシア政策の最前線であると同時に、幕臣左遷地の定番となっておりました。
才能はあるけれど、トラブルメーカーでもある、栗本鋤雲にとってはうってつけの土地です。
いや、むしろ彼だからこそ活躍できたともいえる。
江戸時代、栄転あるいは左遷をされて地方に派遣されると、その地であっけなく亡くなる官僚も少なくないものでした。
土地が合わないのでしょう。ましてや蝦夷地となれば、寒冷さゆえに困難を伴います。
それでも鋤雲は耐え抜くどころか、意気軒高です。
なんと、樺太探検までこなしたのですから、驚異的な健康体。樺太ではアイヌからイオマンテに誘われた鋤雲は、厳粛な祭典だと理解して正装で臨み、その様を漢詩で高らかに詠みあげたのでした。
これが鋤雲の魅力のひとつでもあります。フランス人のメルメ・カションに対しても、アイヌに対しても、差別心よりも好奇心で接することができるのです。
なんともサッパリした人柄を発揮できる土地が、この蝦夷地でした。
かくして安政5年(1858年)、鋤雲は蝦夷地在住を命じられ、函館へ向かいました。

伊能忠敬『大日本沿海輿地全図』の蝦夷地/wikipediaより引用
医者ではなく、箱館奉行配下で在住諸士をまとめる頭取という地位です。
鋤雲のいた函館は、外国に対する北の玄関口となっておりました。
ロシア人向け正教会やバーニャ(ロシア式サウナ)があるかと思えば、新島襄のような人物が密航出発点として選ぶ場所でもあった。
そんな鋤雲の元に、フランス人宣教師メルメ・カションが訪ねてきます。
彼はフランス駐日公使ロッシュの通訳を務めており、語学を学びたがっていた。メルメ・カションが日本語を習い、鋤雲がフランス語を習う――そんな関係が築かれたのです。

メルメ・カション(左)と関係の深かった栗本鋤雲/wikipediaより引用
語学のみならず、メルメ・カションは技術についても鋤雲に教えてくれました。
好奇心旺盛な鋤雲は、それを函館で生かしたいと願い、実行に移します。
ざっとリスト化しますと……。
・函館医学所の設立
・江戸時代は「花柳病」と呼ばれ必要悪とされていた梅毒予防に取り組む
・七重村薬草園経営
・久根別川から函館まで船運開通
・食用牛、綿羊の飼育
・養蚕
・紡績業の開発
いかがでしょう。単なる破天荒にとどまらず、先を見る力を持っていることがわかります。
医者なのに、なぜ?
これは鋤雲が優れていただけでなく、東洋医学の思想についても考えた方がよいかもしれません。
天下国家を診察してこそ、上医である
なぜ医者が天下国家を論じるのか?
不思議に思われる方も多いかと思います。
伝説的な名医・張仲景にはこんな逸話があります。
どんな名医も皇帝の病を治せず、張仲景が呼ばれた。
彼の診察で回復した皇帝が都にとどまるように頼むと、彼は断った。
「陛下のご病気は治せますが、国の病は治せませぬがゆえ……」
名医とは、国家や政治の腐敗をも見抜き、その治療法を見出せるものである――そんな考え方が、東洋の伝統医術にはあります。
栗本のように、医者が天下国家を憂いたとしても、それは至極まっとうなことなのです。
東洋の医者には、以下のようなことを言い出す人が出てきます。
上医:病気にかからないように予防します
中医:今にも発症しそうな状態で、それ以上悪化しないように治療します
下医:病気になってから治療します
上医:国家を治療します
中医:人を治療します
下医:病を治療します
「やるのであれば上医を目指す。国を治療する医者になるのだ。政治家を目指すぞ!」
こうした考えには、東洋の伝統的な思想がありました。
神羅万象、万物が天地の間にあるからには、国家そのものが病となれば、その中にいる人間までも病んでしまうということ。
栗本鋤雲とは、まさしく東洋の上医でした。
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