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【栗本鋤雲】
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日仏をつなぐ幕臣として
幕末は、幕府内でも才能重視で人材登用がなされた時代。
鋤雲の才能は認められ、箱館奉行組頭に任じられ、医籍から士籍にまで出世を遂げました。
その任として樺太や南千島の探検を命じられ、さらには文久3年(1863年)、江戸に呼び元されます。
ここで鋤雲が命じられる予定だった役職は「新徴組」の頭領でした。佐々木只三郎により清河八郎が暗殺されてしまったため、鋤雲を頭領にする案が浮上していたのです。

清河八郎/wikipediaより引用
しかし、京都では浪士隊改新選組が結成され、話はお流れに。
流れたとはいえそんな話があったことから、鋤雲の剛腕も伺えます。
結局、かつては彼を追い出した昌平坂学問所に、頭取として復帰。目付とされ、横浜鎖港談判員として立ち会うことになりました。
ここで鋤雲は意外な人物との再会を果たします。
ロッシュとメルメ・カションです。
この出会いもあって幕府はフランスとの距離を縮めてゆきます。これも鋤雲ならではの深い洞察と意見があっての外交方針転換でしょう。
様々な諸条件をふまえると、協力を依頼できそうな国はないのではないか。アメリカは南北戦争で途絶。ロシアとイギリスは危険すぎて論外。そう幕府は頭を抱えていました。
そんなとき、フランスという選択肢が浮上してきたのです。
フランスはカトリック教国です。幕府はキリシタン禁制以来、カトリックを厳禁してきました。このことを踏まえれば、フランスは同盟相手としては真っ先に脱落してもおかしくはありません。
しかし鋤雲はその布教に来た危険人物であるメルメ・カションと交流し、この男はむしろ不真面目な生臭坊主であると理解できてもいます。
フランスは布教よりも切実な目的があって日本に接触してきていると、彼には理解できたのです。
フランス喫緊の課題は、絹の確保でした。
絹に魅了されていたフランス国民は、もはやそれなしに貴婦人のドレスを作るなど、考えられなくなっています。ところが蚕に伝染病が大流行し、壊滅的な打撃を受けていたのです。
清から輸入しようにも、制限があるうえに、イギリスが目を光らせていてどうにもうまくいかない。そんな苦境の中、日本から絹を取り入れるという選択肢が浮上してきます。
かつて日本の絹は中国産に劣っていたものの、江戸時代という長い泰平のなか、品種改良は進んでいます。日本産の絹も実に魅力的なものとして存在しました。
絹を優先的に供給することと引き換えに、協力体制を整える。まさしく日本とフランス、双方にとってメリットのある関係となります。
かくして、日仏共同プロジェクトは、急速に進められてゆきます。
・横須賀製鉄所設立(後に横須賀造船所へ)
・軍事顧問招聘
・横浜フランス語学校開校

関東大震災直後の横須賀海軍工廠/wikipediaより引用
幕府でも屈指の海外通である栗本鋤雲です。
製鉄所御用掛にはじまり、外国奉行、勘定奉行、箱館奉行なども務めるほどに重用されていきます。
お気づきでしょうか?
栗本鋤雲は、薩摩や長州の志士たちよりもずっと早く、西洋の技術と、さらに連携の道を見出していたのです。
慶応元年(1865年)の兵庫開港問題では、外国奉行である栗林鋤雲がイギリス・フランス・アメリカ・オランダの4カ国と渡り合っています。
しかも、幕閣の中心として話をまとめあげ、その評価は高まるばかりでした。
そんな彼には幼馴染でもある盟友がおりました。五歳下の小栗忠順です。彼にとって栗本鋤雲は、仰ぎ見るような頼りになる兄貴分ともいえます。
そんな小栗はよくこう漏らしていました。
「金が、足りない……」
そんなぼやきをさんざん耳にしてきて、実際その通りだと鋤雲は理解していました。
横須賀製鉄所建設前にも金がない、幕府はもう持たないのではないか。そう腹を割って話せる弟のような小栗に対し、彼はそう漏らしました。
すると小栗はキッパリと言います。
「金がないのはわかっちゃいる。でもここで金を使わなくなって、それがどこに流れるかわかったものではないだろう。ここでやり遂げれば、土蔵付きの売り家を残す栄誉は得られる」
土蔵とは、火災が多い江戸での暮らしに欠かせぬもので、ここに貴重品や財産をしまうことで守ろうとしていました。現代の金庫のようなものです。
幕府がまるで火災に見舞われるようなことがあろうと、残すものを作り上げたい。そんな小栗の高い志がそこにはあります。名誉よりも実利をとる。それが小栗の高潔さでした。
幕府の未来はないだろう。しかし、日本の未来は限りがない――そんな思いを語っていた友の姿を、鋤雲は忘れることはありませんでした。
関東が幕府とフランスの協力で急速に近代化を進めていく一方、西日本では別の動きが起きておりました。
尊王攘夷を掲げた薩長土の過激藩士たちは、京都中心に政争を繰り広げていました。
しかしこれをやりすぎた結果、薩摩藩は生麦事件を契機とした薩英戦争。長州藩は下関戦争により、反撃を受けてしまいます。
こうした中で、イギリスは薩摩と長州に目をつけておりました。
かれらからすれば、フランスと幕府は許し難い。フランスが絹貿易を優先的に進めていることは気に入らない。幕府がイギリスの介入を警戒しつつ、近代化を急速に進めることも懸念材料です。
日本が近代化してしまっては、東洋を搾取するというイギリスのシナリオは成立しなくなるかもしれません。
ここは幕府を潰し、イギリスの言うことを聞き入れる傀儡政権を打ち立てることこそが上策ではないか?
そう考えるイギリスにとって、薩長の若き志士たちは御し易い相手でした。老成した幕臣よりもずっと聞き分けがよいのです。
外交情報の蓄積ある幕臣はイギリスの危険性をふまえて警戒するものの、若い志士はそれができません。
かくしてイギリスの思惑のもと、薩長は武器を買い揃え、倒幕へと動き出します。
こうしてみてくると、不可解なものが見えてくるのではないでしょうか。
2015年大河ドラマ『花燃ゆ』放送の前年である2014年、ドラマ後半の舞台となる富岡製糸場が世界遺産登録されました。
2015年には「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」が登録されています。
しかし、これには横須賀製鉄所はじめ、幕府が手がけた関東にある施設は登録されていない。
一方で製鉄・製鋼、造船、石炭産業とは関係のない松下村塾は登録されています。
この世界遺産登録を見ても、日本の明治維新認識は歪であることがみえてきます。関東での幕府の動きはなかったこととされ、幕臣はまとめて無能集団とされてしまっています。
『逆賊の幕臣』のキャストが発表されるたびに、誰なのかという戸惑いが広がっているようです。それはあったはずの功績が消されているからこそ生じた奇妙な現象といえます。
外交の要として、急遽パリに派遣される
慶応2年(1866年)正月。
将軍の弟・徳川昭武がパリ万博へ参加するため、欧州へと派遣されました。
渋沢栄一も随行した幕府からの遣欧使節団ですね。

徳川慶喜の弟・徳川昭武もいた徳川使節団/wikipediaより引用
その目的は日仏友好も兼ねた昭武の留学でもあったのですが、その途中、フランスからの借款が中止になるというトラブルが発生してしまいます。
原因は、幕府に対して私怨を抱き、薩摩とも繋がりのあったモンブラン伯でした。
モンブランの言うことを受けた現地の新聞社が「幕府使節団は怪しい」と連日バッシングを続けていた結果です。
こうして、むしろ悪化してしまった日仏関係修復のため、派遣されたのが栗本鋤雲でした。
鋤雲は後には引けぬ気に満ちていたことでしょう。この借款を頼りに、小栗がどれだけ近代化計画を立てていたのか、鋤雲は誰よりもよく理解していました。
鋤雲は慶応3年(1867年)6月、横浜港を出発。昭武一行がヨーロッパ各地を見て回る間、鋤雲たちはパリで外交交渉に努めることとなります。
急遽決まったパリでの生活で、鋤雲はさまざまな技術に感銘を受けました。
蛇口をひねれば出てくる水。
法の下で人々を平等に裁く裁判所。
サーベルを身につけ、交通を整理し、人々を見回るポリス。
日本に近代警察のシステムを持ち込んだといえば初代警視総監・川路利良が有名です。

川路利良/wikipediaより引用
しかし、川路より先にポリスの有効性に目をつけ、日本に持ち込もうとしていたのが鋤雲でした。
滞仏中には、メルメ・カションの紹介で、痔の手術も受けています。鋤雲は本人が医者だけに、西洋医術の利点を知っていたのです。
麻酔を吸い込んだ鋤雲は、気持ちよく酔ったような気持ちになったと回想。鋤雲ならではの観察眼で、フランスとドイツ医学の優位性を見出していました。
明治以降、日本の医学界がフランス式とドイツ式で別れ、揉めたことを踏まえますと、先見の明を感じさせます。
そんなフランス滞在中、驚天動地の報せが届きます。
江戸幕府が倒壊してしまったのです。
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