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【栗本鋤雲】
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反骨のジャーナリストとして明治を生きる
慶応4年(1868年)5月、帰国した鋤雲は隠棲しました。
才智あふれる鋤雲は新政府からの出仕を依頼されましたが、これを拒否。
栗本鋤雲は元幕臣です。
新政府に仕えることは「弐臣(じしん)」になることを意味する。二君に仕えた家臣のことで、東洋の道徳規範では恥ずべきものとされました。
この規範は江戸っ子改東京府民にも沁み込んでおり、明治政府に出仕したら野菜や魚を売ってもらえなくなることも続出しておりました。
新たな日々を模索する彼の胸には、こんな思いが去来したことでしょう。
なぜ、小栗忠順が己の隣にいないのかーー。
鳥羽・伏見の戦いで惨敗し、榎本武揚の軍艦を盗み取るようにして江戸に戻ってきた徳川慶喜。
その袖を握り締め、小栗忠順は必勝の迎撃策を訴えます。しかし慶喜はその袖を払い、抗戦を拒んだのです。
なお、のちにこの迎撃策を目にした新政府のものたちは、これが実行されていたら首がなかったのは自分たちであっただろうと冷や汗をかいたとされます。
小栗はやむなく自領に隠棲していたところ、理不尽な冤罪により斬首されてしまいました。幕府が倒れたあとは出仕せず、後進の育成をしたいと語っていたその願いは無惨にも断たれてしまったのです。
鋤雲の胸には、怒りの炎も燃えたぎっていたことでしょう。
勝海舟は、慶喜の無血開城を実現に移しました。
これが鋤雲からすれば憎い。小栗の策実現に動くどころか、武士らしからみっともない降伏をまとめた勝海舟だけは許せない――そんな憎しみも滾っていたのです。
なお、この無血開城交渉は、実際には勝よりも他の「幕末三舟」である山岡鉄舟と高橋泥舟の方が貢献していたとされます。
それでも勝に怒りが向けられるのは、性格的な問題といった要素もあるのでしょう。
では、登用を一切断って何をしていたのか?
当初、鋤雲は隠棲していました。そんな彼に明治5年(1872年)、江戸っ子が愛する戯作者である仮名垣魯文が誘いをかけてきます。「横浜毎日新聞」に入らないかとのことでした。
鋤雲はこのとき、小栗の考えていた近代化を思い出したことでしょう。彼は新聞社創設も、近代化構想にあげていたのです。亡き友との誓いを守るべく、彼は筆で近代化に尽くすことになります。。
明治6年(1873年)には「郵便報知新聞」主筆に就任。ここには、彼と同じく小栗とジャーナリズムの必要性を語り合っていた旧幕臣・福沢諭吉とも交流が再開されます。
明治の新聞界には、旧幕臣が顔を揃えています。福地源一郎、前島密など。
さらには錦絵版「郵便報知新聞」には、家茂上洛図や上野戦争の絵を手掛けた月岡芳年も参加します。明治政府は当初、彰義隊慰霊を禁じていました。
しかしそれがゆるんでくると、芳年のような絵師が勇敢だった彼らの姿を描いたのです。新聞には当時の民衆のなまなましい感情がありました。
当初は隠棲しながら、明治5年(1872年)、仮名垣魯文の推薦で「横浜毎日新聞」に入り、以降は筆でもって活躍。
明治6年(1873年)には「郵便報知新聞」の主筆を務め、福沢諭吉とも交流を結びました。

福沢諭吉/wikipediaより引用
明治18年(1885年)、ジャーナリストを辞め、やっと隠棲することになりました。そして明治30年(1897年)、息を引き取りました。
享年76。
弐臣となるを潔しとせず
ここで栗本鋤雲との比較対象として、『青天を衝け』で主役を務めた渋沢栄一のことを思い出してみましょう。

慶応3年(1867年)の渋沢栄一/wikipediaより引用
小栗忠順が大河の主役として起用されると、こんな声も大河ファンからあがったものです。
「幕臣は渋沢栄一でやったばかりだ」
「別に斬新でもない。会津藩や新選組もあるではないか」
残念ながらこれは的を外していると指摘せざるを得ません。
まず、渋沢栄一は幕臣として相応しいのかどうか?
確かに肩書としてはそうだと言えます。しかし、当時を生きている人からすると首を捻りたくなっても無理はありません。
これは彼の主君が徳川慶喜ということがあげられます。
当時の江戸っ子に「最後の公方様は誰ですか?」と問いかけたら、十中八九、こうかえってきたことでしょう。
「そりゃおめぇ、家茂公じゃねえか」
慶喜はあくまで一橋家当主という認識にすぎず、江戸っ子も、幕臣も、江戸ではなく京都で唐突に将軍になり、逃げ帰ってきた慶喜はせいぜいが「一橋」に過ぎませんでした。
その家臣であり、三河以来でもなく、京都で仕え始めた。明治になってから伊藤博文や井上馨と親しくしている。
そんな渋沢栄一が幕臣代表だと主張したところで「どういうことでぇ」となるのは致し方ないことです。幕臣の子である岸田露伴が伝記執筆以降、渋沢の話を避けるようになったことにも、こうした事情があるのでしょう。
この渋沢栄一があくまで京都にいることが多かった点も重要です。
幕末ファンの聖地巡礼というと、薩長土の地元や会津。そして京都が定番とされます。
しかし、栗本鋤雲と小栗忠順の生涯を見てくると、おかしいと気付かれるのではないでしょうか。
ペリー来航後、一寒村から急激に発展した皆とある都市となった横浜。
同じく急速に発展し、かれらが心血を注いで建てた製鉄所を建てた横須賀。
それがなかったようにされてきています。この流れに、栗本鋤雲は抵抗せねばなりませんでした。
彼はなぜ、新政府からの出仕要請を断り、明治の世でジャーナリストになったのか? 栗本鋤雲は、幕臣の功績忘却に抵抗したともいえるのです。
幕末の京都以来、新政府サイドの各藩はジャーナリズムの重要性を実感し、御用記者を養成するような状態でした。
例えば、京都で酒食の金を豪快に使った長州藩は京雀から喝采を送られました。
禁門の変では長州藩尊皇攘夷派が「どんどん焼け」の原因を作ったにも関わらず、糾弾されたのは幕府、京都守護職会津藩、新選組でした。
ここで幕臣や江戸っ子が負けを認め、その生きた証を踏み潰されることを許すわけにはいかない。筆でせめて抵抗することを彼らは選んだのです。
抵抗する対象としては、薩長史観では美談とされる無血開城も含まれています。
かといって慶喜は、攻撃対象とはしづらい。会津藩士であった山川浩・健次郎兄弟であれば、直接の君主にはあたらない慶喜を罵倒することは憚られませんが、栗本鋤雲は幕臣でもある。
こういうとき、使える手はあります。
君側の奸――主君を誑かしたけしからん家臣を叩くべし。そうなるのです。
攻撃対象は絞られてきました。
はるばる函館まで転戦したとはいえ、明治政府に出仕した榎本武揚。
そして、「無血開城は俺がまとめた」とことあるごとにいいふらす勝海舟――武士の忠義という観点から見ても十分この二人は許し難いものがあります。
二人の共通項として、海軍もあります。明治の海軍は幕府海軍を引き継いだともいえるものです。それを一から自分たちが育てたかのように喧伝するこの二人を見て、鋤雲は幕府海軍に尽くしていた小栗の顔を思い出し、怒りにふるえたとしても不思議はありません。
侠気溢れる鋤雲は、弟のような小栗忠順のために戦う意義を感じていたことでしょう。
『逆賊の幕臣』の設定でもあるように、小栗と勝はライバルといえばそうです。外交方針にせよ、小栗はフランス重視、それに対して勝はイギリスを視野に入れていました。その結果として、勝は坂本龍馬を育成し、西郷隆盛にまでヒントを与えるようなことをしている。
勝はあの調子のよい江戸っ子べらぼう口調で、俺ァ分け隔てなく接するだのなんだの調子良く言うわけですが、鋤雲からすれば卑劣な裏切り自慢ともいえる。
勝は確かに言い過ぎです。鋤雲がまとめてきたフランスとの同盟にせよ、相手が本気であったわけがないとまでぬけぬけと言う。
おまけに小栗が切望していたしていたフランス借款が取り消されてしまったとき、小栗の顔面蒼白になっていたことを面白おかしく語っています。
こんな調子では、栗本鋤雲が怒髪衝天となっても仕方ないでしょう。
新聞紙上でことあるごとにさんざん勝攻撃をするだけでなく、鋤雲は豪傑肌であるだけに、顔を合わせたときも相手に雷を落とします。
鋤雲は、榎本武揚の顔を見た際、こう言い放ちました。
「よく俺の顔が見られるもんよ」
罵倒された榎本は、反論もできずにジッと黙っているばかり。
旧幕臣の会合で、勝海舟を見た鋤雲は、問答無用で怒鳴りつけました。
「下がれ!」
この会合には鋤雲と親しい福沢諭吉も同席しており、それこそ快哉を叫んでいたことでしょう。
福沢はこの席で鋤雲に『痩我慢の説』を見せました。
勝海舟と榎本武揚を、武士の誇りを台無しにしたと罵倒する書物でした。これには鋤雲も大喜びし、福沢の背中を押したのでした。
弍臣とならず、在野で才智を生かし、誇り高き幕臣として生きる。
栗本鋤雲と福沢諭吉には、利よりも義を選んだという共通点があります。
まさに『論語』にある「君子は義に喩(さと)り、小人は利に喩(さと)る」という生き方です。
それだけでなく、愛する兄弟たる小栗忠順の代わりに戦うような、そんな熱い義侠心も感じさせるのです。
ちなみに勝海舟は、幕末期幕臣の中では数少ない、研究の進展により評価が下降傾向の一人です。教科書から名前が消えてもおかしくない人物の一人とさsれております。
栗本鋤雲からすれば、当然の帰結かもしれません。
『夜明け前』“喜多村瑞見”から、『逆賊の幕臣』へ
明治以降、フィクションはそんな誇り高き幕臣にとって冷淡でした。
維新志士は華やかかつ真偽不明な逸話で盛り上げられてゆくなか、幕臣や彰義隊は江戸っ子の記憶の中に生きるしかありません。
明治政府は残酷かつ執拗なまでに、そんな記憶を消し去ろうとします。
月岡芳年が彰義隊士を描いた錦絵『魁題百撰相』は、売上好調であったものの、不可解な打ち切りにあっています。彰義隊の慰霊は正式に禁止され、緩和まで時間を置かねばなりませんでした。
その彰義隊の慰霊碑は上野にあります。
しかし、それに気づく人はどれほどいるのでしょうか。この慰霊碑から見ると、巨大な西郷隆盛像の背中が見えます。自分たちを死に追いやった西郷から、尻を向けられ続ける彰義隊があまりに憐れでなりません。
昭和4年(1929年)、島崎藤村が発表した『夜明け前』は、幕末を舞台としながら爽快な志士を描くももとは異なりました。
この小説は作者の父をモデルとしています。国学を崇拝し、日本の夜明けを熱望しながら、その期待を裏切られ座敷牢に閉じ込められてしまった。そんな信州の一人の男の目線を通し、あの時代を描いているのです。
平田篤胤の国学を学んだ主人公・半蔵にとって、幕府は異人に対し無策で人々を苦しめる存在でした。
しかし、そんな幕臣の中にも才知あふれるものがいなかったわけではないともされます。
岩瀬忠震への評価はかなり高いものです。これは幕閣の事情を知らぬ国学信奉者目線での評価でしょう。
岩瀬忠震は徳川斉昭の子・一橋慶喜を将軍に推した、一橋派の大物でもあるのです。徳川斉昭・慶喜親子は水戸学や国学の信奉者にとって、敬愛の対象でした。
この作品には、そんな国学崇拝者の目線にとらわれない奇妙な人物が出てきます。
型破りな医者であり、幕府に仕える喜多村瑞見です。彼は一橋派ではないにも関わらず、傑物として高く評価されています。かつ、彼の言動は作中で屈指の生々しさがあり、とても生き生きとしているのです。
それはなぜか?
まだ若いころ、島崎藤村は七十を超えて隠棲していた栗本鋤雲を訪れ、教えを請いました。この鋤雲をモデルとしたキャラクターが喜多村瑞見なのです。
藤村の鋤雲への追慕が反映されているからこそ、喜多村瑞見はメインプロットに関係ないのに、生々しく魅力的な像を見せています。
さらにこの喜多村瑞見の回想として、小栗忠順の「土蔵つきの売り家を残す名誉」という言葉も記されています。
栗本鋤雲と小栗忠順は、幕府が滅びたら後進の育成をしようと語り合っていました。鋤雲がその誓いを守ったからこそ『夜明け前』のなかに喜多村瑞見が残されたといえます。
この『夜明け前』発表から二十年も経たぬうち、昭和20年(1945年)、日本はアジア・太平洋戦争に敗北しました。これを契機に日本でも薩長史観の見直しが進んでゆきます。
大河ドラマ第一作は、薩長史観では不動の悪、怨敵とされてきた井伊直弼を描く『花の生涯』。二作目は明治維新のもとで苦労する幕臣の家に生まれた女性を描く『三姉妹』でした。
それが戦争の記憶が薄れ、司馬遼太郎がヒットを飛ばす高度成長期に突入すると、またしても薩長史観が蘇ります。
大河ドラマ第12作は『勝海舟』であるという反論もあるでしょう。しかし勝が幕臣の中でも高い評価である理由とは、あの坂本龍馬や西郷隆盛を感服させたという、維新への貢献で語られるものでした。
これは『青天を衝け』にもあてはまります。渋沢栄一は幕臣としてではなく、明治以降の活躍があればこその人物です。
明治維新敗者側である会津藩目線の『獅子の時代』『八重の桜』。新選組を主役とする『新選組!』もあります。しかし京都での政局目線で描かれるものです。
こうして考えてくると、大河ドラマはやっと原点回帰を果たしたように思えます。『花の生涯』の井伊直弼の後継として、関東からフランスと協力し、近代化を進める幕臣を描く大河ドラマは実に画期的なことなのです。
栗本鋤雲が先進的な豪傑幕臣として描かれ、それが広く知られるとすれば、『夜明け前』以来であってもおかしくはない。まさに歴史の転換点であり、忘却からの回帰なのです。
斬新で、視聴者の歴史観を塗り替える、そんな『逆賊の幕臣』を期待して待ちましょう。
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【参考文献】
小野寺龍太『栗本鋤雲』(→amazon)
泉秀樹『幕末維新人物事典』(→amazon)
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