松平定信・徳川家斉・一橋治済の肖像画

左から松平定信・徳川家斉・一橋治済/wikipediaより引用

江戸時代 べらぼう

堅物の定信に対し「家斉の仕事は子作り」とうそぶく治済~それは幕府崩壊の始まり

大河ドラマ『べらぼう』は江戸時代中期を描いた初めての大河ドラマ。

今回で徳川幕府の十五代将軍すべてを取り上げたことになりますが、徳川家斉が最後になったのは少々意外かもしれません。

というのも家斉には、際立った特徴があります。

徳川歴代将軍の中で最長の統治期間を誇り、その年月はなんと50年。

天保8年(1837年)に息子の徳川家慶へ将軍職を譲りましたが、それでも幕政の実権を握り続け、大御所として君臨し続けたのです(【大御所時代】)。

さらには子供を53人(あるいは55人)つくったこともそうでしょう。

ドラマの中では「将軍にしかできない仕事は子作り」だと、父の一橋治済がうそぶいていましたが、まんざらフィクションだけの話ではないのです。

しかも、この子沢山は江戸幕府にとって非常に悪影響を与えました。

一体どんな事態を招いたのか?

大河ドラマ『べらぼう』でも注目度が高まっている、松平定信と一橋治済と共に徳川家斉の治世を振り返ってみましょう。

 


一橋豊千代として生まれ、幼くして政治の駒となる

大河ドラマ『べらぼう』の前半は、徳川家斉が将軍継嗣として西の丸に入るまでの複雑な政治闘争が描かれました。

政治の舞台で中心になったのは徳川家治田沼意次、そして一橋治済です。

徳川家治(左)と田沼意次/wikipediaより引用

その治済の長男である家斉は、安永2年(1773年)10月5日に生まれ、豊千代と名付けられました。

母は旗本・岩本正利の娘である富子。

この一橋家嫡男がいかにして11代将軍となったのか。

史実でも様々な出来事が重なっていて興味深く、あらためてその経緯を振り返ってみたいと思います。

まず徳川幕府の初代である家康は、次々に滅びていく織田政権や豊臣政権の様を間近で見て「世継ぎの重要性」を痛いほど感じていたでしょう。

次の当主が途絶えたら呆気なく終わってしまう。

そんなことがないよう慎重を期した徳川幕府では【御三家】(尾張・紀伊・水戸)を設置。

尾張藩:徳川義直

紀伊藩:徳川頼宣

水戸藩:徳川頼房

宗家の世継ぎが途絶えても、この御三家から輩出することで徳川家(幕府)が存続できるようにしました。

左から徳川義直(尾張藩)・徳川頼宣(紀伊藩)・徳川頼房(水戸藩)/wikipediaより引用

実際、7代将軍・徳川家継のあとに宗家の血筋が途絶え、紀伊徳川家から8代将軍・徳川吉宗が受け入れられてます。

さらには吉宗の代から設置されたのが【御三卿】(田安・一橋・清水)です。

田安家:徳川宗武(第8代将軍徳川吉宗の三男)

一橋家:徳川宗尹(第8代将軍徳川吉宗の四男)

清水家:徳川重好(第9代将軍徳川家重の次男)

※御三家には所領があるが御三卿には無い

徳川宗武は松平定信の父でもありますが、その頃、時代が大きく動いたのが安永8年2月24日(1779年4月10日)のことです。

10代将軍・徳川家治の嫡男である徳川家基が急死しました。

徳川家基/wikipediaより引用

家治には男子が家基一人しかおらず、本来なら世継ぎが入る江戸城西の丸に誰もいないという異常事態が発生したのです。

しかも【御三家】でも世継ぎとなれる男子がいません。

一橋よりも上位とされる田安徳川家の賢丸(後の松平定信)は、白河藩松平家へ養子に出され、清水家の重好にも男子はおらず。

かくして安定的な後継者として、一橋豊千代に白羽の矢が立ったのです。

豊千代が西の丸に入るまでの政争は、なかなか複雑怪奇なものでした。

弟と甥が一橋家の家老を務めていた田沼意次。

何かと黒い噂が絶えない豊千代の父・一橋治済。

当時から彼らの暗躍が囁かれました。

家斉は将軍になったあと、家基の墓参を欠かさなかったとされ、このことも不可解な噂を裏付けるものとされています。

少なくとも家斉は「父が家基を害したのではないか?」と思っていたようなのです。慢性的な頭痛に悩まされていた家斉は、祟りが原因ではないかと怯えていたことも伝えられています。

豊千代は一橋家から江戸城西の丸に入り、天明6年(1786年)、10代・家治が亡くなると、徳川家斉が11代将軍となりました。

 


田沼意次から松平定信へ

徳川家康が政権運営を始めたころ、幕府の政治体制はそこまで複雑でもありませんでした。

後に「庄屋仕立て」と称される程度でしたが、時代が降るにつれ複雑化し、江戸幕府では将軍自らの政権運営より、側近の動向が注目されるようになってゆきます。

10代・家治の統治は【田沼時代】でした。

文字通り、田沼意次が先頭に立って重商主義の政治改革が進められたからです。

しかし、凄まじい権勢を誇った意次も、後ろ盾となる家治が亡くなるとたちまち失脚。

政治の表舞台では田沼派の排除が行われてゆきますが、全てが消されたわけでもなく、残存勢力は幕閣に残った状態です。

それを一掃する人事として抜擢されたのが松平定信でした。

松平定信/wikipediaより引用

定信は【天明の大飢饉】の折、白河藩から一人も餓死者を出さなかった名君として名高い人物です。

意次に対して深い恨みを抱き、清廉潔白な人物としても知られています。

ゆえに田沼政治に不満を抱いていた者たちから大きな期待を抱かれ、天明7年(1787年)に定信は老中に就任。

その後、改元された年号にちなみ【寛政の改革】と称される改革へと邁進します。

 


父・一橋治済の傀儡将軍となる

一方、将軍となったとはいえ徳川家斉はまだ幼く、実質的な権力者はその父である一橋治済といえました。

家斉は、父の治済が亡くなるまで、顔色を伺うばかりであったともされています。

将軍の父である一橋治済の意図を読み解かねば、家斉時代の前半は舵取りが非常に難しかった。

定信の政治姿勢は厳しく、江戸っ子の期待はたちまち失望へと変わり、田沼意次を懐かしく思うようになります。

しかし民の不満=失脚へと繋がるわけでもありません。

松平定信の【寛政の改革】は賛否両論が渦巻いていました。

されど、老中首座となってからわずか6年、寛政5年(1793年)で失脚に追い込まれたのは、かなり急な事態でもあります。

いったい何が起きていたのか?

定信の失脚は2つの要因が考えられます。

一つ目は朝廷との【尊号一件】です。

当時の光格天皇は、家斉同様に複雑な事情を経て即位しました。

皇子のない後花園天皇の後、光格天皇が養子となってから天皇となったのです。

光格天皇/wikipediaより引用

結果、父の典仁親王よりも位が上となってしまった光格天皇は父に「太上天皇」(上皇の正式な名称)を贈ろうとし、家斉も理解を示すのですが、そこで「待った」をかけたのが定信でした。

そんなことは【禁中並公家諸法度】に反する。

天皇に即位していない親王に尊号を贈るとはいかがなものか。

定信の主張に、幕閣も同意。

朝廷はこれに激怒し、大いに揉めることとなります。

このころから【尊王思想】も高まりつつあり、天皇の意向を無視できぬ情勢となっていたのでした(詳しくは後述)。

そして二つ目が一橋治済です。

【尊号一件】に家斉が理解を示したのは、己と似た立場であったからでしょう。

彼の父である治済を「大御所」とし、西の丸へ迎え入れたいと家斉も考えていた……と、それだけではなく治済自身の意向も大きかったのでしょう。

光格天皇の望みを聞き入れれば、この願いも通りやすいという読みがあってもおかしくはありません。

しかし、何事も筋を通したい松平定信は、これにも断固反対。

その結果、家斉と、背後にいる治済の不興をかい、ついには失脚してしまうのでした。

松平定信失脚後の人事は、田沼意次とは異なります。

田沼派は軒並み失脚したものの、定信派の者は「寛政の遺老」と称され、政治に関与し続けます。

田沼意次にせよ、松平定信にせよ、彼ら一人だけで政治を動かせたわけでもありません。

両者の路線が完全否定されたわけでもないのです。

田沼意次の子である田沼意正も、後に若年寄へ復権。

政治改革と時代の流れに翻弄されながら、家斉の長い治世【大御所時代】が続いてゆくのです。

なお、田沼意次と松平定信の後継者は、政治家としての果断という点では落ちます。

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小檜山青

東洋史専攻。歴史系のドラマ、映画は昔から好きで鑑賞本数が多い方と自認。最近は華流ドラマが気になっており、武侠ものが特に好き。 コーエーテクモゲース『信長の野望 大志』カレンダー、『三国志14』アートブック、2024年度版『中国時代劇で学ぶ中国の歴史』(キネマ旬報社)『覆流年』紹介記事執筆等。

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