堅苦しい漢字が並ぶ”日本史あるある”。
江戸時代でその筆頭と言えるのが慶長20年(1615年)7月17日に二条城で公布された【禁中並公家諸法度】でしょう。
字面からして複雑怪奇……そんなため息が聞こえてきそうですが、実際のところ中身を端的かつ正確に表していて、文句のつけようがありません。
まずは「禁中」。
おおむね御所(天皇やその住まい)のことであり、実質的には皇族を示します。
続けて公家と諸法度は、次の通り。
「公家」=貴族
「諸法度」=法律
すべて合わせて考えて見ますと【天皇・皇族・貴族に関する法律】となりますね。
1615年に大坂の陣が終わり、徳川体制が盤石化していく最中に出されました。
大名に関する【武家諸法度】も同年に出されており、死間近の徳川家康が最期に揮った政策とも言えます。

徳川家康/wikipediaより引用
では中身は?
というと、この法律の中核にあるのは、
「皇族と公家は学問と文化の継承に専念し、政治に関わるべきではない」
というものです。
悪意を持って解釈すれば「だから幕府のやることに口も手も出すなよ^^」となるわけですが……。
本稿では、江戸時代の朝廷って、どんな存在だったの? という点も振り返りつつ、禁中並公家諸法度やその中身17条を見てみましょう。
天皇の影響力が悪用されないように
そもそも朝廷は、平安時代から京都周辺の統治に重きが置かれ、他の地方にはさほど熱心ではありませんでした。
むろん東北や九州への征伐なども行った実績はありますが、彼らが地方で気にしていたのは「自分の荘園が豊作か不作か」ぐらいだったと考えられます。
なんせこの時代は、身分が高くなればなるほど行動範囲が狭くなるもの。
しかし【承久の乱】や鎌倉幕府討伐のように、時折それを飛び越えて、政治・軍事に関わろうとすることもありました。
武家政権に何らかの綻びが生じた時にムクムクと動き出したのですね。
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禁中並公家諸法度は、そうしたイレギュラーを許さない!ということを明記したともいえます。
もっと乱暴にいうと「どうせアンタらは武士のことを見下してるし、京都以外のことなんてどうでもいいんだろ? ならヘンに口を出さずに大人しくしてろ。邪魔すんな」ということです。
別の見方をすると、江戸幕府は天皇の影響力が悪用されることを防ごうとした……とも考えられます。
征夷大将軍も天皇に任じられるからこそ、権威を持てるわけですからね。
「第二の将軍(武力権力)」を生み出さないためには、あらかじめぶっとい釘を差しておく必要がありました。
では、実際にはどんな中身だったのか?
少し具体的に見て参りましょう。
17条は意外とスッキリわかりやすい
禁中並公家諸法度が制定されたのは、前述の通り元和元年(1615年)、7月のことでした。
7月を強調したのは、大坂夏の陣で豊臣家が滅びてから二ヶ月程度であり、さらには【武家諸法度】が発布されてから、たった10日後のことだからです。
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まずは武士を締め、次に朝廷や公家に釘を刺した……という感じでしょう。
もちろん、法律は一朝一夕でできるものではありませんから、豊臣家を滅ぼす前から作成準備はしております。
内容を簡単に意訳しますと、だいたいこんな感じです。
全17条はそれぞれスッキリした内容ですので、どうぞ最後までご覧ください。
◆第一条
天皇がまずやるべきことは学問である。
◆第二条
三公(太政大臣・左大臣・右大臣)は親王よりエライ。
◆第三条
辞任した三公は親王より格下。
◆第四・五条
たとえ摂関家の出身でも、才能がない者を三公にしてはならない。他の家の者は言語道断である。有能な三公や摂政・関白は、高齢になったとしても辞任してはならない。辞任したとしても再任すべき。
◆第六条
母方の縁に繋がる養子縁組は禁止。
◆第七条
武家の官位は公家の官位とは別にする。
◆第八条
改元については、中国の年号から良い物を選ぶこと。だが、今後担当者が熟練した場合には、日本の先例を優先すべき。
◆第九条
天皇と公家の服装についての規制。
◆第十条
公家の昇進についての規制。
◆第十一条
関白・武家伝奏・各奉行の命令に公家が従わない場合は、流罪にすべき。
◆第十二条
罪の下限については、先例に従うべき。
◆第十三条
摂関家の門跡については、親王門跡よりも格下とする。
◆第十四・十五条
僧正・門跡・院家を叙任するときは、基本的には先例にならうべき。
◆第十六条
紫衣を許すべき僧侶は、熟考すること。最近テキトーすぎ。
◆第十七条
上人号についても、熟慮の上で勅許を出すこと。
もし受験生の方がいらっしゃいましたら、全部覚える必要はないのでご安心を。
おそらくや問われるのは「徳川家康がこの法律によって、皇族や公家を統制しようとした」というところまで。
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この法律によって、曖昧になっていた摂関家と親王の序列や、高僧の叙任など、事細かに決めていることがわかります。
万が一、上記の内容が史料で出たら、一度でも現代文に目を通しておくことで対応しやすくなるでしょう。
前々年に出されていたのが公家衆法度
実はこの禁中並公家諸法度。
制定については、当の公家の筆頭である関白・二条昭実も関係しています。
事前に、関白と共に定めることによって、何か揉め事が起きる前に防ごうとした……という面もあったでしょう。
エラくなればなるほど前例や権威が物を言いますし、何より、幕府と徳川家の権力を確定させる効力があったのは間違いないと思います。
なお、禁中並公家諸法度よりも前の慶長十八年(1613年)、実は
【公家衆法度】
という別の法律も出されておりました。
こちらも文字通りの意味で、公家に対して「お前らちゃんと働けよ^^」(※イメージです)と念を押すようなものです。
主な中身を見ておきましょう。
1 公家は、各家で代々行ってきた学問に励むべき
2 行儀や法に背く者は流罪
3 昼夜しっかり仕事をすること
4 下町をうろちょろしないこと
5 賭け事をしたり、行儀の悪い侍を雇ったら流罪
だいたいこんな感じです。
では、もしも違反があったら?
罰を執行するのは武家でした。
要は「これからは公家だからといってえこひいきしないし、素行が悪ければ遠慮なく処罰するからな」というわけですね。
公家のコントロール、そして公家を利用しようとする不届き者への牽制を同時に狙った、と見るのが妥当でしょうか。
こういうことは多少強引になってでも是正しないと、なぁなぁになっていつまでも悪い面が残りがちですから、江戸幕府としても仕方のない一面がありましょう。
もっとも、時代が下ると家康の神格化にともない、悪用されたきらいもありますが……。
当然、これらの法度について、皇室や公家からの反発もありました。
それは【紫衣事件】などで表に出てきますので、また別途取り上げますね。
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【参考】
国史大辞典「禁中並公家諸法度」「公家衆法度」









