大河ドラマ『べらぼう』の第39回放送で、最大の見どころは女将おていさんの活躍でした。
「身上半減」の処罰を言い渡され、なおも軽口を叩く蔦屋重三郎のことを「己のことばかり!」と激しく叱咤し、彼を窮地から救い出したことで書物問屋の株も取得。
なにより最大の見せ場は、蔦重の判決直前に行われた柴野栗山(しばのりつざん)との対面でしょう。
嶋田久作さん演じる栗山は、松平定信に請われて幕府へやってきた儒学者。
そんな当代きっての知識人に対し、漢籍を引用して夫の減刑を迫る女将おていさんは素晴らしい迫力でしたが、実際、彼女があそこまで輝いて見えたのも、対峙した柴野栗山が揺るぎない存在に見えたからでしょう。
いったい彼は何者なのか?
現代人の考える「学者」とは一味違う――定信の政治をフォローしていた柴野栗山の生涯や思想、歴史背景について振り返ってみましょう。

柴野栗山/wikipediaより引用
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讃岐国儒学者の家に生まれる
柴野栗山は元文元年(1736年)、讃岐国三木郡牟礼村にて生まれました。現在の香川県高松市です。
父は柴野軌逵(きき)、母は柴野於澤(おさわ)。
当人だけでなく両親の名前からしても教養の高さが窺えますが、実際に儒学を学ぶ家に生まれており、幼少の頃はいわゆる“神童”と呼ばれるような子だったのでしょう。
同時代同エリアの讃岐には、これまた優秀な少年がいました。
享保13年(1728年)、讃岐国寒川郡志度浦の白石家に生まれた、後の平賀源内です。

平賀源内/wikipediaより引用
この時代となると、学問に秀でた者には出世の機会がありましたが、両者のタイプは全く異なります。
“からくり”で周囲の大人を驚かせていた源内少年に対し、真面目に勉学に励んでいたであろう栗山。
源内は本草学を極め、現代でいうならば理工系に進むのに対し、栗山は儒学を極める文系となりました。
さらに源内は戯作も手がけて出版業にも顔がきくマルチタレント型となり、対する栗山は儒学を極めてゆく。
非常に対照的な二人でした。
若くして湯島聖堂で学ぶ
寛延元年(1748年)、数えで13歳となった柴野栗山は、高松藩の儒学者である後藤芝山(ごとうしざん)のもとへ通うようになりました。
そしてその5年後の宝暦3年(1753年)、18歳の栗山は35歳も年上の高松藩士・中村君山(くんざん・名は文輔)と共に江戸へ。
中村君山は、高松藩の儒学を担う人物でした。
江戸で学び、藩主・松平頼桓(よりたけ)により「藩儒」(はんじゅ・藩お抱えの儒学者)となり、「侍講」(じこう・君主に使える専属教師)を務めるほど。
藩きっての有識者であり、史書編纂も担っていました。
そんな高松藩を代表するような人物と共に江戸へ向かったのですから、藩でも栗山を、次代を担う儒者として育てようとしていたのですね。
実際、中村君山が江戸行きから10年後、宝暦13年(1763年)に死去すると、栗山は高松藩の儒学を背負うこととなります。
栗山が江戸で学んだのは、湯島聖堂でした。

現在の湯島聖堂大成殿
徳川家康が林羅山を重用して以来、儒学を重んじていた江戸幕府にあって、湯島聖堂は孔子廟も備えた当時の最高学府です。
全国各地から優秀な者たちが集い、学問を修め、それを故郷に持ち帰って広めてゆくことが、栗山にとっても責務でした。
栗山は湯島聖堂にとどまらず、明和2年(1765年)には高橋図南にも師事しております。

聖堂(江戸名所図会より)/wikipediaより引用
栗山の学問の特色は、源内との対比で見てとれます。
源内の場合、さらに学問を広げたいとなると、オランダ人や清人との交流ができる長崎へと足を伸ばしました。
一方の栗山は、公家出身の国学者である高橋図南に教えを求め、京都へ向かったのです。
この時代は、日本人の学問志向も分かれてゆきます。
吉宗時代以来の実学や蘭学に興味を抱くタイプが平賀源内であり、国学や朱子学を極め日本という国についてより深く知りたいと考えるタイプが柴野栗山。
学力の違いもあります。
どちらも優秀なようで、若い頃の源内は教養不足を指摘されています。漢籍読解知識が劣っているとみなされたのです。
湯島聖堂で学んだ栗山は、その点、当時でもトップクラスの学力といえる。
両者のキャリアも大きく分かれます。
平賀源内はあくまで自由を求め続けました。
宝暦9年(1759年)には、高松藩に出仕を持ちかけられ、それに応じていますが、藩主・松平頼恭(よりたか)を相手にするのが面倒になり、ついには辞職。
怒った頼恭は源内に対し、他家への出仕禁止となる重い処分「奉公構(ほうこうかまい)」の措置を取ります。
学者としての源内の出世はここで詰まってしまいました。
では、栗山の場合は?
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