江戸時代の天皇といえば、やはり幕末関連で出てくる孝明天皇が有名でしょうか。
むしろ、それ以外の方についてはほとんど知らない人が多いですよね。
孝明天皇も含めて、現在の皇室の直接的なご先祖様は江戸時代中期にいらっしゃいました。
しかも幕府の権勢著しい中、勇気ある行動を起こしています。
今日はそんな「影の名君」とも呼べる方が主役です。
天保11年(1840年)11月18日、光格天皇が崩御されました。
先代の後桃園天皇に男子がなかったため、血筋は離れていましたが天皇として選ばれています。
実にこのとき9歳。
後桃園天皇の娘である欣子内親王と結婚する約束も条件の一つだったので、歳の近い光格天皇に決定したのですね。
・光格天皇の系図
東山天皇(曽祖父)
│
閑院宮直仁親王(祖父・かんいんのみやなおひとしんのう)
│
閑院宮典仁親王(父・かんいんのみやすけひとしんのう)
│
光格天皇(本人)
2025年大河ドラマ『べらぼう』の時代を生きた方で、劇中での出演は微妙かもしれませんが、本記事でその生涯を振り返ってみましょう。
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即位早々、飢饉が起きる
光格天皇は、即位早々不運に見舞われます。
江戸四代飢饉の一つ【天明の大飢饉】にぶち当たってしまったのです。
江戸時代は、災害のオンパレードでしたが、この飢饉はその中でも最大規模のものでした。
冷夏だけでも飢饉になりうる時代だというのに、各地の火山が噴火して日が差さなくなり、全国的な冷害になってしまったのです。
期間としては天明2年(1782年)~天明7年(1878年)。
あまりにも死者が多かったため、どこの藩でも正確な数を計りかねる有様で、米屋への打ちこわしも頻発しました。
特に酷かったのは東北地方であり、京都を始めとした西日本でも影響は免れません。
人々も「上様に何とかしてって伝えてよ!」と京都所司代(京都にあった幕府の出張所みたいなところ)に訴えます。
しかし、この頃には所司代の権力が大幅に低下していて、具体的な対策をすることができません。
なぜかというと、ほとんどの仕事が江戸にいる老中の管轄になってしまっていたため、ほとんど名ばかりの役職になってしまっていたからです。
だから京都守護職ができた
現代からすれば、それで仕事が滞ってたら意味ないだろとも言いたくなります。
当時は誰もそんなことを気にしていなかったようで。
幕末に京都守護職(例:松平容保)が作られたのは、所司代が有名無実になっていたからでもあります。
無理やり例えるとすれば、融資の相談をしたくて地元の銀行窓口に行ったのに「私には権力がないので、本社のお偉いさんに言ってください」と門前払いを食らったようなものでしょうか。
そんな扱いされたら、本社じゃなくて別の銀行に行きますよね。
当時の市民も同じように考えて、幕府ではなく別のところにお願いに行きました。
それが天皇のおわす御所。
もちろん中には入れません。
門のあたりで天皇の御座所の方角へ向かってお祈りをし、賽銭を投げるという人々が出始めたのです。
御所千度参り
賽銭を投げる人――そんな突発的イベントが始まってから10日後には7万人を超える民衆が集まったとか。
京都だけではなく、大坂や近江など近隣諸国から天皇にお祈りをしにくる人が来ていたのです。
来る人が日に日に増えたということは、門番も無碍に追い返したりはしなかったのでしょう。
京都の町はこれらの人々で溢れかえり、光格天皇の耳にも達しました。
こうした庶民の行動を【御所千度参り(ごしょせんどまいり)】と言い、彼等に対して、真っ先に行動を起こしたのが後桜町上皇です。
彼女は、2代前の天皇であり、現時点で最後の女帝。
上皇になってからは幼かった光格天皇の指導にあたるなど、後見役を果たしていました(親子や兄弟関係ではなく、曽祖父が同じ親戚)。
なんせ光格天皇はこのとき10歳を過ぎたばかり。
当然市民もそれを知っていたでしょうから、いかに幕府が頼りなく思われていたか。
当時の将軍は10代目の徳川家治で、ちょうど40歳。
不惑を過ぎた将軍より、天皇とはいえ10歳の子供を信じたってどういうことなのさ。
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