浮世絵と言えばこの人だ、と思い浮かべる人も多い。
にも関わらず、絵師としての活動時期は1年にも満たず、忽然と歴史の表舞台から姿を消してしまった――東洲斎写楽が大河ドラマ『べらぼう』でも話題になりました。
蔦屋重三郎の前から姿を消した少年唐丸が「後に東洲斎写楽あるいは喜多川歌麿になって戻るのではないか?」とSNSを中心に囁かれていたからです。
第17回の放送を終え、その正体は「やはり喜多川歌麿だったか……」と思われるヒントが出されましたが、それにしても不思議なのが東洲斎写楽です。
プロデュースしたのは板元として大成功を収めていた蔦屋重三郎。
そして現代人の多くが思い浮かべる『三代目大谷鬼次の奴江戸兵衛』という代表作がある。

東洲斎写楽『三代目大谷鬼次の奴江戸兵衛』/wikipediaより引用
それなのに、実は江戸時代においてはあっという間に表舞台から消えていたのはなぜなのか。
彼はいったい何者だったのか?
東洲斎写楽の事績を追ってみましょう。
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写楽は能役者・斎藤十郎兵衛でほぼ確定
東洲斎写楽とは一体何者なのか――。
大河ドラマでは、本能寺の変や坂本龍馬の暗殺、あるいは紫式部と藤原道長の関係など、“歴史ミステリ”とされる事象がしばしばストーリーに盛り込まれます。
しかし、その多くが実は決着済みのことも多く、写楽も史実をたどればミステリアスな存在ではありません。
正体は、阿波徳島藩主蜂須賀家のお抱え能役者だった斎藤十郎兵衛(さいとう じゅうろべえ)です。
宝暦13年(1763年)に生まれ、 文政3年3月7日(1820年4月19日)に死没。
東洲斎写楽としての活動期間は短く、寛政6年(1794年)5月から翌寛政7年(1795年)1月までの、わずか数ヶ月でした。
作品数は145点程と目されています。
ちょうど30歳頃に作品を発表し、1年たたずに消えていった――その理由も、実はそれほど複雑ではありません。
要するに売上が思わしくなく、徐々に点数が減らされてゆき、ついには活動終了となったのです。
天保15年(1844年)に書かれた斎藤月岑『増補浮世絵類考』にも「写楽の正体は斎藤十郎兵衛である」と記されており、蜂須賀家の記録など他の史料と照らしても齟齬はありません。
言い換えれば、これ以外の説は史料すらなく、その正体は斎藤十郎兵衛しかないということになります。

二代目沢村淀五郎の川連法眼と初代坂東善次の鬼佐渡坊/wikipediaより引用
歌麿は「俺と一緒にするな」と酷評
斎藤十郎兵衛=東洲斎写楽である。
そう言い切って良い状況なら、なぜ東洲斎写楽の正体は謎とされ、様々な説が出たのか?
まず写楽を斎藤十郎兵衛だと確定するには若干証拠が弱いということもあります。
そもそも浮世絵師の確かな業績や正体は、特別な売れっ子あるいは武士出身でもでなければ追えないことが多いのです。
ファンや弟子が多い大物絵師は、墓や顕彰碑が建てられ、死絵(追悼する絵)も描かれる。
ある程度の記録は残ります。
一方、中堅以下となると、名前と作品だけしか残らぬことはよくあり、そうした絵師をミステリ扱いすることはそうそうありません。
そもそも写楽は、よほどのマニアか学者でもなければ、知られていない存在でした。
むしろ同時代の喜多川歌麿が「あんな欠点ばかりを強調する売れない奴と俺は違う」と引き合いに出すような“失敗した絵師”扱いだったのです。
同じころ、江戸っ子が熱狂したのは初代・歌川豊国でした。

歌川豊国像(歌川国貞作)/wikipediaより引用
歌川派はこの豊国以降、続々と売れっ子絵師を輩出する、江戸の最大一派となります。
「おめェさんよォ、俺ら江戸っ子が好きなのは豊国なんだから仕方ねェじゃねえか」
当時の人からすればそうなる。
なのになぜ、写楽の絵が現代では教科書に掲載され、代表的な浮世絵師とされてきたのか?
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