東洲斎写楽

東洲斎写楽『三代目大谷鬼次の奴江戸兵衛』/wikipediaより引用

江戸時代 べらぼう

なぜ東洲斎写楽は1年足らずで表舞台から消えたのか~蔦重が売り出した浮世絵師の顛末

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蔦屋の写楽か? 和泉屋の豊国か?

歌川豊春が開祖の歌川派に、歌川豊国がいました。

明和6年(1769年)生まれの豊国は、写楽と同じ年に役者絵シリーズを売り出します。写楽よりも6歳下でまだ若い新進気鋭の絵師です。

版元は和泉屋市兵衛。

新進気鋭の蔦屋重三郎に対し、こちらはいわば大手、定番の版元です。

蔦屋重三郎と東洲斎写楽

和泉屋市兵衛と歌川豊国。

果たして、最後に笑うのはどちらなのか?

両者とも、当時広まりつつあった写実性を重視した、【役者絵】の新時代決定戦が行われると、結果は「和泉屋と豊国」の勝利に終わりました。

豊国の役者絵は野心的で、かつ顧客のニーズに応えていました。

歌川豊国『早の勘平 尾上栄三郎』/wikipediaより引用

【役者絵】に求められる様式美。そこに写実性を加えた手堅い作品は、まさしく売れ筋の王道です。

江戸っ子はこぞって豊国の作品に飛びついてゆきました。

推しの特徴を示しつつも、その魅力が伝わってくる。それはもう素晴らしいものだったのです。

一方で写楽はどうか?

デフォルメをやりすぎました。

現代の似顔絵でも、顔や体型の特徴を極端に強調する手法はあり、ユーモラスであるし、味もあるかもしれません。

しかし、コンプレックスとなりかねない要素まで強調した画風は、ときに目を逸らしたくなることもある。

写楽の作品もそうでした。

もうひとつ、豊国と写楽を比較する上で重要な点があります。写楽の代表作として出てくるのは、第一期のデビュー時の作品が中心で、バストアップの【大首絵】となります。

しかし、第二期以降、路線を変更し全身像も加わります。この全身像となると、豊国の画力が優っていることが見て取れます。

江戸っ子の審美眼は「写楽を魅力的と思えぬほど見る目がなかった」とは言い切れません。

「豊国と写楽を比較し、豊国に軍配をあげるほど目が肥えていた」のではないでしょうか。

写楽は歌麿ほど画業に取り組む時間がなく、準備不足のままデビューさせられたのではないかと思われるのです。

画力についていえば、歌麿の酷評もヒントとなります。

写楽が手がけたジャンルは【役者絵】と【相撲絵】です。いわば役者や力士の人気に乗っかったジャンルといえます。

そうしたジャンルならば、欠点でなく長所を重視せねば推し活のお供になりません。浮世絵師の中には自身の画力でなく、そうした人気に乗っかって評価されることが納得できず、敢えてこうしたジャンルから距離を置くものもこのあとの時代には出てきます。

歌麿の言わんとするところはわかります。

「自分の力量をゴリ押ししたいなら、役者だの力士以外を描けばいいじゃねえか。俺ァ、美人画で花魁以外も描いてそうしたぜ」

推察するに、こんなところでしょう。

 


華麗なるデビュー後に打ち切り

写楽は消えたことそのものがミステリーとされます。

しかし、その消え方は、追えば答えが見えてくる。

写楽のデビュー作は28枚組の【雲母摺】(きらずり)です。

雲母摺とは雲母を背景に用いるもので、江戸時代のホログラム加工です。

浮世絵は、庶民が気軽に買えることが特色ですが、版元が宣伝戦略として豪華路線にすることもありました。

写楽はとびきりの高級路線でデビューを果たしました。しかし……。

第一弾の売れ行きがどうにも悪い。

東洲斎写楽『瀬川菊之丞』/wikipediaより引用

第二弾、第三弾ともなると、紙の質もおさえられ、紙のサイズも小さめの【間判】や【半判】になってゆく。

そして第四弾を最後に、絵師としての活動は終わりを迎えます。

こうしてみてくると、既視感を覚えませんか。

大手雑誌の新人賞で大絶賛を受けた作家が大々的にデビューを果たすも、どうにも連載の評判が悪く、読者アンケートでも低迷し、掲載順位がどんどん落ちてゆく。

そして打ち切り――。

あんなにプッシュされて、堂々とカラーぺージでデビューしておきながら、結局はあっという間に消えてしまう、そんな作家のことを思い出しませんか。

浮世絵とは、現代の雑誌にも通じるシステムの上に成立していたのでした。

 


歌麿で成功した戦略 なぜ写楽では通じない?

蔦屋重三郎はいわば腕利きの編集者です。

喜多川歌麿のデビューから売り出しは、その戦略がピタリとハマった。

若手絵師に過ぎなかった歌麿を慎重かつ華麗に売り出し、とびきりの売れっ子絵師とさせました。

【美人画】はそれまでの主流とは異なる。

理想化した美女ではなく、実在する女性の特徴を取り入れ、リアリティも感じさせる。インパクトがある。

その売り出し方は一世を風靡し、歌麿こそが伝説のジャンル第一人者になります。

幕府の規制もなんのその。歌麿だけでなく、蔦屋もまた天賦の才に恵まれた人だったのでしょう。

東洲斎写楽は、デビューのさせ方も戦略も、歌麿に通じるものがあります。

しかし、それはうまくいかなかった。

むしろ【役者絵】の世界を一変させたのは、歌川豊国でした。

歌川豊国『役者舞臺之姿繪』/wikipediaより引用

歌川派は豊国のあと、浮世絵の後期を担う最大の派となりました。

「歌川にあらずんば浮世絵師にあらず」

江戸では、そんな言葉が囁かれる程。

豊国率いる歌川派は、プロダクションシステムといえる仕組みを定着させました。大勢の絵師が売れ筋の画風でコンスタントに【役者絵】を世に送り出し、一世を風靡したのです。

しかも歌川派は門人が多く、広重・国芳・国貞という「三羽烏」も出てきます。歌川派の系統は現在にまで続いているとされます。

このことは、かえって蔦屋と写楽という強大な敵を凌駕した、そんな歌川豊国の威力を証明しているようにも思えてきます。

喜多川歌麿と東洲斎写楽――どうして歌麿がヒットして写楽はコケてしまったのか。

一番首を傾げていたのは、蔦屋その人のような気がします。

写楽の絵は実際に素晴らしい。それはそう。革新的で技量はある。アイデアはいい。宣伝戦略も、印刷技術も、何もかもできていた。

それでも負けた。

写楽の謎とは、その正体でも、消えてしまったことでもなく、江戸っ子のニーズを読み違えた戦略ミスではないか?

そんな視点からこの絵師を見直すとなれば、版元からの方がよいのかもしれません。

まさしく大河ドラマでじっくりと描くにふさわしい題材といえるでしょう。

 

『べらぼう』の写楽はどうなるのか?

苦い結末と言える東洲斎写楽の大失敗。

これが『べらぼう』の晩秋から冬への展開かと思うと、憂鬱な気持ちになるかもしれません。

ドラマとタイアップした東京国立博物館特別展「蔦屋重三郎 コンテンツビジネスの風雲児」では、斎藤十郎兵衛を採用していました。

脚本の森下佳子さんも、写楽の正体は確定していると語っております。

かつては写楽の存在をめぐり、大仰な仮説を立てた歴史ミステリが売れ筋でしたが、今はそれも古くなり、豊国はじめ歌川派再評価の流れです。

2019年、太田記念美術館「生誕250年記念 歌川豊国 ―写楽を超えた男」は、その流れにあるとわかる企画の典型例でしょう。写楽でやたらと引っ張る流れはもう古いのです。

そしてこれは、大河ドラマの特性を見ていてもわかります。

大河ドラマではあえて地味なようで適切かつ最新の説をとることが、実は近年では増えております。

・2016年『真田丸

第二次上田合戦】において、真田昌幸徳川秀忠を大敗させてまではおらず、足止めに成功したのだと手堅く描写しました。

主人公は「真田幸村」の方が有名であるにも関わらず、最終盤まで「真田信繁」と名乗らせています。

・2020年『麒麟がくる』

【本能寺黒幕説】を否定し、信長と光秀の心理的齟齬を丁寧に描きました。

・2023年『鎌倉殿の13人』

歴史ミステリとして有名な【源実朝暗殺事件黒幕説】を否定し、あくまで公暁単独犯行としました。

特に重要であるのが、『べらぼう』とスタッフが重なる『麒麟がくる』でしょう。作風として、若干古い歴史ミステリはあえてやらないと思えるのです。

その上で写楽の挫折をドラマとしてどう扱うか?

その伏線とその種はすでに蒔かれているといえます。

前述の通り、絵師からそこまで意識されたか判然としない写楽なのですが、歌麿は酷評を残しています。

そのためか、歌麿が写楽に対して嫉妬していたとするフィクションはあります。1995年の映画『写楽』がそうです。

『べらぼう』でもこの伏線はあります。初回冒頭、蔦重は「メイワク火事」さなか、素性のわからない少年と出会い、唐丸と呼ぶことにします。

この唐丸の絵の才能を見抜いた蔦重は「当代一の絵師にする」と彼に誓う。

そして彼は喜多川歌麿として、掌中の珠のように大事にされ、デビューを飾るのです。

そんな歌麿が、写楽を自分と同じようにデビューさせる蔦重を見て、嫉妬することは当然の流れでしょう。

歌麿を演じる染谷将太さんは、『べらぼう』と同じチームの『麒麟がくる』において、親に理解されずどこか孤独な織田信長を演じました。

信長は自分を理解する明智光秀に出会い、君臣の枠を超えた熱情を抱きます。それが最終回へ向かう過程で破綻するところが、ドラマのクライマックスでした。

今回の歌麿も、母親から憎まれた孤独な少年時代を過ごしています。

彼は唐丸として蔦重に出会い、本物の愛を知ったのでしょう。

蔦屋重三郎/wikipediaより引用

しかし、この版元と絵師を超えた愛も、皮肉な破綻を迎えてしまいます。

あまりに売れっ子となった歌麿は他の版元の仕事も引き受けるようになり、蔦重だけと付き合うわけでもなくなるのです。

そしてどこか距離が空いたところで、東洲斎写楽の売り出しという、歌麿からすれば裏切りのようなことを蔦重はしてしまう。

涙ながらに「なんでだよ!」と訴える歌麿の姿が目に浮かぶようではありませんか。

なお、この二人は、写楽のデビュー失敗のあと、関係が修復されます。

このあと蔦重に先立たれた歌麿は、果たしてどうなったのか。

歌麿は、蔦重がおらずとも、【美人画】を江戸市中に送り出し続けました。

彼ほど名が売れると、高級路線の【肉筆画】を悠々自適に描く絵師も多いのに、彼はあくまで江戸市中に自作を送り出すことに執着し続けました。

文化元年(1804年)、歌麿は『絵本太閤記』から秀吉の妻妾を題材とした絵を描き、手鎖五十日という重罰を受けてしまいます。このあとはめっきり画力も落ちたとされます。

それから2年後の文化3年(1806年)――あれほどの絵師が、消えるようにひっそりと世を去ったとされます。

曲亭馬琴の筆によれば、妻もなければ、子もいなかったとか。

ライバル・鳥文斎栄之の描いた喜多川歌麿/wikipediaより引用

その一方で、歌麿は妻がおり、その妻と弟子の一人が結婚して二代目になったという説があります。あるいは早くに死別したともされます。彼はともかく不明点が多い。

明治35年(1902年)、浅草専光寺の無縁仏のなかから偶然墓石の土台のみが発見され、亡くなった日が確定されております。

享年から逆算して生年も算出されたわけですが、当てになるものとは到底いえません。

唐丸の正体については年齢からの推理がなされておりましたが、そもそも生年が当てにならないことは重要でしょう。

もうひとつの伏線として、西村屋与八があげられます。

初代である西村まさ彦さんと、蔦重は何かと因縁があります。

初代西村屋与八/wikipediaより引用

この初代に婿入りした二代目が、これまた蔦重と序盤から関係している鱗形屋孫兵衛の二男です。

ドラマでは万次郎として少年期から登場しております。万次郎は幼い頃から聡明で、かつ蔦重に恨みを募らせる場面があります。

歌川豊国を売り出した版元には、和泉屋市兵衛だけでなく、この二代目与八もおります。

【美人画】対決では蔦重と歌麿の後塵を拝していた西与が、ここぞとばかりに豊国を見出すとすれば、かなり見応えがあることでしょう。

こうした断片をつなぎ、どう組み立ててゆくのか。

森下佳子さんは、視聴者が直視できないほど辛い展開をさせるという評価があります。『おんな城主 直虎』での小野政次の最期は伝説的とされます。

そのせいか、唐丸すら再登場しないという予測すらあったほど。

しかし、それはまだ甘いのではありませんか。

唐丸が歌麿として再登場し、蔦重とともに江戸を絵師として駆け抜け、当代一の絵師となる夢を叶える。

しかし写楽のこともあり決裂してしまう。

これもなかなか波瀾万丈の展開でしょう。

蔦重は妻を娶り、二代目に耕書堂を継がせます。一方で歌麿は、蔦重との思い出に生き、絵を描き続けるのです。

そして妻子もないまま、あの日みた夢を抱きしめ、ひっそりと消えていってしまう――史実を見てゆくとそうなってもおかしくありません。

それも十分、見るものの心を抉る終わり方ではありませんか。


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文:小檜山青
※著者の関連noteはこちらから!(→link

【参考文献】
小林忠『浮世絵師列伝』(→amazon
深光富士男『浮世絵入門』(→amazon
小林忠/大久保純一『浮世絵鑑賞の基礎知識』(→amazon
田辺昌子『浮世絵のことば案内』(→amazon

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