275年前の今日、寛延3年(1750年)1月7日は蔦屋重三郎が生まれた日です。
その名が、2025年大河ドラマ『べらぼう』の主役と発表されたとき、瞬時にピンときた方は少なかったでしょう。
吉原に生まれ育ち、遊郭のガイドブックで成り上がり、その後は広く江戸文化を盛り上げたカリスマ。
一言で説明すると、いかにも型にはまらない破天荒タイプですが、彼は運にも恵まれていました。
泰平の世を迎えて世襲制度が確立し、社会が停滞してきたときに田沼意次が頭角を現し、その流れに乗って蔦屋も閉塞感を吹き飛ばすようにして売れていったのです。
己の才知を生かし、一代でのしあがった二人。
田沼と比べて蔦屋重三郎の知名度が格段に劣るのは、彼自身が絵を描いたり文章を記したりするクリエイターではなかったからでしょう。
一方、蔦屋重三郎はどうか?
彼はいわゆるプロデューサーであり、彼自身の作品は残されていません。
しかし、蔦屋重三郎なくしては世に生み出されなかった傑作が多数あるだけでなく、彼が手掛けたエンタメビジネスは、現在の日本文化やエンタメに影響を与え続けているのです。
では彼はどんな作品を世に送り出し、いかなる人物だったのか?
その生涯を振り返ってみましょう。
吉原で生まれ、吉原で育つ
寛延3年(1750年)1月7日、後に蔦屋重三郎として知られることになる男児が生まれました。
父は尾張出身の丸山重助。
母は江戸出身の広瀬津与。
その子は「丸山柯理(からまる)」と名付けられますが、屋号と通称を組み合わせた蔦屋重三郎の名で世に知られることになります。
両親が7歳のときに離縁し、重三郎は喜多川家の養子とされました。
幼いころに両親と別れたことは彼の心に大きな傷となって残ったのか。
後に重三郎は、母を顕彰する墓碑銘を残すこととなります。
幼少期の重三郎について、逸話の類は残されていません。
吉原で生まれた彼は、さして気に留める者もいない普通の少年だったのでしょう。その才知が発揮されるまでは、もう少し待たねばなりません。
喜多川家は吉原に茶屋「蔦屋」を構える
蔦屋重三郎が生まれ育った吉原は、江戸唯一の幕府公認遊里でした。
吉原では一晩で千両落ちると言われるほど、莫大な金が動きます。
客は遊女と遊ぶ金だけではなく、飲食費まで含めた相当な価格を支払うからです。
吉原での遊びには手順がありました。
張見世(はりみせ)で遊女を見定め、交渉がまとまったら遊ぶ――この方式は低いランクの遊女のみに適用されます。
花魁と遊ぶとなると、前段階が大変です。
遊客は【引手茶屋】を経由し、【揚屋(あげや)】に向かい、まずはここで幇間や芸者を招いて、盛大な宴会を開く。
するとそこへ花魁が揚屋までやってきます。
吉原名物「花魁道中」ですね。
揚屋を介して花魁を呼ぶとなると、莫大な金がかかります。滅多にないことであればこそ、花魁道中には価値がありました。
毎回この揚屋を仲介するとなると、どんな御大尽であろうと、あっという間に懐が寂しくなります。
そこで【揚屋】を介さず【引手茶屋】だけで済ませることもありました。
吉原にある【引手茶屋】は茶を出すだけではなく、宴席も設けられます。客の滞在時間も長くなる。ここがポイントです。
重三郎が養子となった喜多川家は「蔦屋」を号したこの【引手茶屋】を経営していたのです。
吉原を往来する人々から重三郎は多くの見識を吸収し、才知を磨いてゆきました。
書店「耕書堂」を開き『吉原細見』に乗り出す
安永元年(1772年)、23歳となった蔦屋重三郎は、吉原大門口五十間道に書店「耕書堂」を構えました。
「書で耕す」とはなかなか意欲的な店名ですね。
遊郭の中ではなく、吉原に入ってすぐの場所。
兄の蔦屋次郎兵衛が【引手茶屋】を営み、弟はその支援を受けて書店を開いたというわけです。
理屈としては通ります。
吉原に入った客が書店でおもしろそうな本を手にする。それを手にして茶屋へ行く。
開店の翌安永2年(1773年)、重三郎はこの書店で吉原のガイドブック『吉原細見』を扱うことにしました。
貞享年間(1684ー1688)頃から刊行されてきた定番売れ筋商品です。
このガイドブックの内容は、以下のように現代人から見ても納得できる充実ぶりで、いわば『吉原Walker』といったところでしょうか。
・年に二度、春と秋に発刊
・各町ごとの遊女屋リスト
・遊女の源氏名、役付け、揚代の一覧
・芸者や茶屋リスト
・名物ガイド
・紋日(イベント)ガイド
当時の吉原はテーマパークでもあります。
遊郭にあがらずとも、郭内で飲食店をめぐる観光客もいました。
重三郎が提供したのは、訪問者それぞれのニーズを満たすためのガイドブックだったんですね。
入り口そばにそんなものが置かれていれば、誰だって手に取ってみたくなるのは必然。
重三郎は目端が利き、人当たりもよかったのでしょう。
『吉原細見』を刊行する鱗形屋孫兵衛は、安永3年(1774年)から重三郎に『吉原細見』のチェック、改め役を任せることとします。
最新の情報にアップデートできているかどうか、重三郎の目を通して行ったわけです。
なお『べらぼう』の劇中で鱗形屋孫兵衛を演じるのは片岡愛之助さんですので、当時の江戸でも重要人物だったとご想像いただけるでしょうか。
その詳細については以下の記事にございますので、よろしければ併せてご覧ください(記事末にもリンクがございます)。
鱗形屋孫兵衛は重三郎の師であり敵であり 江戸の出版界をリードした地本問屋だった
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吉原ブランドを高めるインフルエンサーとなる
一日千両の金が落ちる吉原で、書物の可能性を見出した蔦屋重三郎。
吉原に詳しく、センスの良い重三郎は、鱗形屋孫兵衛にとっても非常に頼りになる存在となりました。
重三郎にしても孫兵衛から出版ノウハウを学んだり、人脈を作り上げることができるわけで、ウィン・ウィンな関係ができあがってゆきます。
この年、重三郎は『一目千本』を刊行しました。
この本は吉原のブランド戦略に一致します。
人気絵師の描く北尾重政の筆による遊女の姿は美しく、優雅でした。
吉原にしかない高級感が漂っており、『べらぼう』の登場人物紹介において、遊女の紹介に『一目千本』と出てくるのは、本書のことです。
当時は貸本が中心の時代であり、まだまだ書物は高かった。
ゆえに、こうした書籍は直接客が買うものではなく、遊女、遊女屋、引手茶屋が馴染みの客に贈る受注形式のものと推定されています。
重三郎は、発注者にせよ、それを手に取る客にせよ、彼らの需要を理解していました。
吉原としてはブランドイメージを上げてくれる。手に入れる側からしても、コレクターズアイテムとして持っているだけで自慢できる。
なんとしても手に入れたい、そんな品だったのです。
かくして重三郎は“コレクターズアイテム”の小売やら出版を手がけるようになってゆきます。
吉原というブランドを如何にして高めていくか――『べらぼう』序盤は、重三郎のプロデュース力が見どころとなります。
当時の江戸は、吉原以外の非公認遊郭がひしめいており、金に余裕のない客は、そちらに足を向けました。
そうなると価格競争も発生し、遊女が安売りされかねない状況も出てくる。
見かねた重三郎が客を呼ぶために頭をひねるシーンがドラマの第1話から描写されていましたね。
しかし、新たな取組を始めれば、旧態依然とした既存勢力とぶつかるのが必定。
ドラマの設定だけでなく、実際、重三郎にとって転機となり得る波乱も起きることとなります。
鱗形屋の凋落と蔦屋の下剋上
安永4年(1775年)5月、鱗形屋孫兵衛がトラブルに見舞われました。
表面上は好調でも、経営には危ういところもあった鱗形屋。そんな中、手代が【重板】事件を引き起こすのです。
ドラマの人物相関図で笑顔を見せている徳井優さん扮する手代・藤八に注目。
江戸時代にも著作権の概念はあります。
無断で著作物を引き写し、刊行すれば罰則がありました。藤八が犯した【重板】は無断複製罪であり、とても『吉原細見』を刊行できる状況ではなくなりました。
そんなとき、重三郎は『吉原細見』の『籬(まがき)の花』を刊行します。
これは大事件でした。
『吉原細見』は売れ筋だけに多くの版元が扱っていましたが、この頃は鱗形屋が独占していた。
重三郎にしても、あくまで鱗形屋版を店に置くだけにすぎなかったのです。
それが鱗形屋が窮地に立ったとき、突如、競合商品を出してきた。
鱗形屋からすれば「恩を仇で返しやがった!」と激怒してもおかしくはないところでしょう。
しかも重三郎は小型本(15.7X11.0センチ)から中型本(19.0X13.3センチ)にサイズを大きくするというリニューアル版で発行。
レイアウトも見直し、吉原内部を各町ごと上下に分けて配置したのです。
おまけに割安で、何より重三郎の確かな目によって中身の情報は充実しておりました。
見やすい。
情報が新しい。
しかも、安い!
こうなっては誰もが重三郎版に飛びつくのが当然でしょう。
鱗形屋はそのまま不振を挽回することができず、江戸の街からひっそりと消えてゆくことになります。
ただし、鱗形屋が出版業や重三郎と縁が切れたわけではありません。
鱗方屋孫兵衛の子は、蔦屋重三郎のライバルとなる西村屋与八の養子となるのです。ドラマでは三浦獠太さんが演じますので注目ですね。
さらに、重三郎はこのころ『雛形若菜の初模様』という錦絵シリーズも刊行しました。
吉原にいる遊女、新造、禿(かむろ)たちが描かれたものであり、廓の外の客が目にすることで、吉原のイメージを高める役割が果たせました。
この刊行には西村屋与八も名を連ねております。
重三郎は吉原のブランド戦略を担いつつ、メキメキと力を伸ばしていったわけです。
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