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【蔦屋重三郎】
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吉原の外に目を向け、書籍販売を模索する
誌面を刷新した『吉原細見』で、新風を吹かせた蔦屋重三郎。
これぞまさしく、江戸出版界の下剋上と言えるでしょう。
蔦屋重三郎は一代で、鱗形屋孫兵衛を討ち取ったようなものであり、『べらぼう』序盤で最も盛り上がる局面だ!――と言いたいところですが、鱗形屋の失墜は、その下で出版を担っていた蔦屋に暗い影を落とすものでもあります。
ここをどう切り抜けるか、重三郎の才知が試される局面でもありました。
重三郎はただジッとしていたわけではなく、人脈形成にも動いていたのでしょう。
鱗形屋で本を出せなくなった文人たちに目をつけ、次に売れるモノを物色していたのです。
そして安永9年(1780年)、重三郎は15種もの書籍を刊行しました。
『吉原細見』だけでなく、バラエティに富んだものであり、ざっと以下のようなラインナップです。
・黄表紙:当時ブームだったフィクション。現代ならば小説
・洒落本:現代ならばジョーク集
・咄本:現代ならば短編集
・往来本:手紙の文面から教養を身につける実用書
既にベストセラー作家となっていた朋誠堂喜三二の手がけた黄表紙までありました。
黄表紙作家といえば恋川春町が人気でしたが、絶頂期にありながら彼は筆を置いてしまい、朋誠堂喜三二はその穴を埋める作家として注目を集めていたのです。
彼の黄表紙に『吉原再見』の挿絵で知名度を上げていた北尾政演が絵をつけるとなれば、売れないはずのない手堅いものといえる。
かくして、蔦屋重三郎が吉原から飛び出す準備は着々と進んでゆきました。
狂歌ブームの波に乗り、さらに熱狂の波を起こす
天明3年(1783年)、蔦屋重三郎は日本橋通油町に新たな店を構えました。
この場所は、現代日本ならばさしずめ東京都千代田区神田神保町といったところ。出版業界がズラリと軒を並べる場所です。
世襲全盛の江戸時代において、成り上がり者がたった一代でその場所に店を構えたのは衝撃的な事件でもあります。
この天命期に重三郎が商機を見出したのが【狂歌本】です。
狂歌ブームに沸いていた天明期の江戸。
狂歌の重要な点は、ネットワークが築けるということです。
仲間で詠みあいながら楽しむ伝統的な遊びであり、【狂歌本】はそんな会合での歌をまとめたアーカイブといえます。
この分野に乗り出して名を売れば、たちまち人脈が形成できるというメリットがありました。
そうした状況にも目をつけながら、さらにもう一工夫加えるのが重三郎の卓越したセンスであり、彼は【狂歌本】に美麗な挿絵をつけて売り出しました。
『画本虫撰』は歌に見立てた虫が描かれ、現在も刊行されています。そのことからも、重三郎のセンスが理解できるでしょう。
もしも狂歌だけならば、パロディのネタが理解しにくい現代人にとっては、需要がありません。
しかし美麗な虫の挿絵がつくことで、手に取って眺めたくなるのです。一過性になりかねないブームに、長く手元に置きたくなる価値を組み合わせたのでした。
挿絵を手がけたのは喜多川歌麿です。
彼が挿絵をつけた狂歌本は『百千鳥狂歌合』や『潮干のつと』もあり、まとめて三部作とみなされます。
この挿絵を手がけたのが喜多川歌麿というのも重要な点です。
田沼時代斜陽とともに翳る江戸の出版界
2024年大河ドラマ『光る君へ』は、『源氏物語』の世界観よりも、当時の政治劇の比率が高いとされました。
紫式部があれほどの長編物語を執筆する上では、大量の紙が必須となる。スポンサーである藤原道長が重視され、政治家としての出世がプロットを貫いていました。
2025年も、時代背景の政治劇は必須となることでしょう。
金なし、親なし、家もなし――そんな蔦屋重三郎がたった一代で吉原を飛び出し、次から次へとヒットを飛ばせたのはなぜなのか?
それは彼の才能だけでなく【田沼時代】の申し子であったことも大きいのです。
一代で成り上がる。
人脈形成が巧みである。
センスに優れている。
そんな長所が似通っているのが、田沼意次と蔦屋重三郎と言えるでしょう。
【田沼時代】が爛熟した天明年間ともなりますと、江戸っ子たちはその政治を皮肉って楽しむようになりました。
何せ、世の中、金、金、金……と、総収賄ワールドになってしまった結果、華美な暮らしを送る田沼近辺の連中を見て、江戸っ子たちは舌打ちをしていたのです。
そんな世の流れから売れ筋を読み解いた重三郎は、政治批判を絡めた【黄表紙】で一儲けしました。
しかし【田沼時代】に翳りが見え始めると、重三郎たちにも影響が及んできます。
天明年間は、火山噴火とそれに伴う大飢饉が発生し、政治不満が高まっており、それもこれも贈収賄ばかりしている田沼意次のせいではないか!と、民衆の不満が高まってゆくのです。
泥の時代が終わったが、清き水には息が詰まる
出自がものをいう古参の幕閣たちも、新参者である田沼の権勢に対し、冷たい目を向けていました。
そして天明4年(1784年)、事件は起きます。
田沼意次の嫡男であり、異例の若さで若年寄に上り詰めていた田沼意知が、江戸城内で切り付けられ、これが元で命を落としたのです。
犯人は「三河以来」の旗本である佐野政言。
佐野は江戸っ子たちから拍手喝采で迎えられ、「世直し大明神」と称えられました。それほどまでに田沼親子は憎まれていたのです。
その約2年後の天明6年(1786年)、10代将軍の徳川家治が亡くなると、後ろ盾を失った田沼意次は失脚。
さァこれで、田んぼや沼地のように濁った世の中もオシマイだぜ!
江戸っ子はそう欣喜雀躍したものでした。
流行をめざとく嗅ぎつける重三郎周辺の文人も、これにははしゃぎます。
山東京伝はじめ、田沼意知の惨殺をおちょくる【黄表紙】を刊行し、一儲け狙っていたのでした。
テロリストの佐野政言を讃え、人の死をおちょくる主役周辺の空気をどう描くのか。それもドラマの見どころとなりそうですね。
しかし、世の中そううまくはいきません。
【田沼時代】の追い風に乗っていた重三郎とその仲間たちは、風を失い失速することになるのです。
暗雲たちこめる天明 そして寛政へ
寒冷な気候の影響を受けて発生した【天明の大飢饉】。
陸奥(東北地方)では凄まじい数の犠牲者を出す中、
白河藩(陸奥国白河郡白河・現在の福島県白河市)では一人も餓死者を出さなかったとされます。
藩主は松平定信です。
それだけ有能な人物であれば、濁り切った田沼の水を、白河のようにサッパリとしてくれるだろう――彼が老中になったとき、江戸っ子たちはそう期待したものでした。
しかし、それは程なくして裏切られます。
田沼意次の経済政策は、停滞した時代を動かすために必須の要素が多分に含まれており、松平定信が行う【寛政の改革】でも、その路線を無視できないどころか、踏襲することもあったのです。
そりゃあいきなりガラリと変えられるわけもありません。
後世からすると「ならば田沼時代をそのまま続けておくべきだったでしょ!」と思うところなのですが、それを理解するには、近世日本の経済事情を見ておく必要がありそうです。
近世日本の経済には、奇妙な点がありました。
それは隣国の清と比較することでわかりやすくなります。
清に対しては、西洋諸国から茶葉や絹糸への需要があり、産業を高めれば高めるほど国家財政が潤う状態となっていました。なんせ清は、当時の世界の総GDPのうち三割を占めていたというほどです。
長年、制限外交を続けていた江戸幕府だって、そんな清を意識していなかったはずがありません。
対清貿易では【俵物】と呼ばれるナマコ等の高級食材を輸出していました。
さらに【田沼時代】を代表する才人と言える平賀源内は、日本の陶磁器改良にも挑んでいます。
シノワズリ(中国趣味)ブームに沸くヨーロッパに、日本産の陶磁器を売り込みたい目論見がありました。
そして蝦夷地にも商機を見出します。
ロシアは日本との交易を望んでいる。
ならば蝦夷地を開拓し、ロシアと交易してこそ道が開けるのではないか?
田沼はそう考えていたのです。
いわばグローバル経済を見据えていたわけで、これに急ブレーキをかけてしまうのが松平定信でした。
意次と定信では異なる点もあり、かつ両者には遺恨もありました。
田安徳川家に生まれ、吉宗の孫であることを誇りとしていた定信。
徳川家治の嫡子である徳川家基が亡くなると、次期将軍の座をめぐり、様々な駆け引きがありました。
定信にも家治の次の将軍となる道はありました。
しかし、一橋家に近い田沼意次の動きもあり実現させられません。
将軍になるには色々な要素が絡んではきますが、定信は機会があれば刺してやりたいと願うほど、意次を憎んでいたのです。
この反発と、吉宗の孫というプライドが、彼を質素倹約へと志向させます。
松平定信の政策をまとめますと、グローバル経済を見据えて日本全体のGDPを高める方針は止め、民衆に至るまで質素倹約を徹底させたのです。
徳川吉宗と田沼意次による政策の不完全な継承と言いましょうか。
その結果、庶民にとっても、踏んだり蹴ったりの状況がやってきます。
せっかく中国趣味やら蘭学やらに開眼していたのに御法度とされてしまう。
代わりに押し付けられたのが「文武両道」だの「質素倹約」だの旧態依然としたものでした。
なんとまぁ、ストレスフルな時代――それをどうにかしようと思っても、気分転換のための娯楽すら政策で締め付けられてしまっているのです。
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