275年前の今日、寛延3年(1750年)1月7日は蔦屋重三郎が生まれた日です。
その名が、2025年大河ドラマ『べらぼう』の主役と発表されたとき、瞬時にピンときた方は少なかったでしょう。
吉原に生まれ育ち、遊郭のガイドブックで成り上がり、その後は広く江戸文化を盛り上げたカリスマ。
一言で説明すると、いかにも型にはまらない破天荒タイプですが、彼は運にも恵まれていました。
泰平の世を迎えて世襲制度が確立し、社会が停滞してきたときに田沼意次が頭角を現し、その流れに乗って蔦屋も閉塞感を吹き飛ばすようにして売れていったのです。
己の才知を生かし、一代でのしあがった二人。
田沼と比べて蔦屋重三郎の知名度が格段に劣るのは、彼自身が絵を描いたり文章を記したりするクリエイターではなかったからでしょう。
紫式部ならば『源氏物語』の作者としてすぐにピンときます。
一方、蔦屋重三郎はどうか?
彼はいわゆるプロデューサーであり、彼自身の作品は残されていません。
しかし、蔦屋重三郎なくしては世に生み出されなかった傑作が多数あるだけでなく、彼が手掛けたエンタメビジネスは、現在の日本文化やエンタメに影響を与え続けているのです。
では彼はどんな作品を世に送り出し、いかなる人物だったのか?
その生涯を振り返ってみましょう。

蔦屋重三郎/wikipediaより引用
吉原で生まれ、吉原で育つ
寛延3年(1750年)1月7日、後に蔦屋重三郎として知られることになる男児が生まれました。
父は尾張出身の丸山重助。
母は江戸出身の広瀬津与。
その子は「丸山柯理(からまる)」と名付けられますが、屋号と通称を組み合わせた蔦屋重三郎の名で世に知られることになります。
両親が7歳のときに離縁し、重三郎は喜多川家の養子とされました。
幼いころに両親と別れたことは彼の心に大きな傷となって残ったのか。
後に重三郎は、母を顕彰する墓碑銘を残すこととなります。
幼少期の重三郎について、逸話の類は残されていません。
吉原で生まれた彼は、さして気に留める者もいない普通の少年だったのでしょう。その才知が発揮されるまでは、もう少し待たねばなりません。
喜多川家は吉原に茶屋「蔦屋」を構える
蔦屋重三郎が生まれ育った吉原は、江戸唯一の幕府公認遊里でした。
吉原では一晩で千両落ちると言われるほど、莫大な金が動きます。
客は遊女と遊ぶ金だけではなく、飲食費まで含めた相当な価格を支払うからです。
吉原での遊びには手順がありました。
張見世(はりみせ)で遊女を見定め、交渉がまとまったら遊ぶ――この方式は低いランクの遊女のみに適用されます。

葛飾応為『吉原格子先之図』/wikipediaより引用
花魁と遊ぶとなると、前段階が大変です。
遊客は【引手茶屋】を経由し、【揚屋(あげや)】に向かい、まずはここで幇間や芸者を招いて、盛大な宴会を開く。
するとそこへ花魁が揚屋までやってきます。
吉原名物「花魁道中」ですね。
揚屋を介して花魁を呼ぶとなると、莫大な金がかかります。滅多にないことであればこそ、花魁道中には価値がありました。

花魁道中の図/wikipediaより引用
毎回この揚屋を仲介するとなると、どんな御大尽であろうと、あっという間に懐が寂しくなります。
そこで【揚屋】を介さず【引手茶屋】だけで済ませることもありました。
吉原にある【引手茶屋】は茶を出すだけではなく、宴席も設けられます。客の滞在時間も長くなる。ここがポイントです。
重三郎が養子となった喜多川家は「蔦屋」を号したこの【引手茶屋】を経営していたのです。
吉原を往来する人々から重三郎は多くの見識を吸収し、才知を磨いてゆきました。
書店「耕書堂」を開き『吉原細見』に乗り出す
安永元年(1772年)、23歳となった蔦屋重三郎は、吉原大門口五十間道に書店「耕書堂」を構えました。
「書で耕す」とはなかなか意欲的な店名ですね。
遊郭の中ではなく、吉原に入ってすぐの場所。
兄の蔦屋次郎兵衛が【引手茶屋】を営み、弟はその支援を受けて書店を開いたというわけです。
理屈としては通ります。
吉原に入った客が書店でおもしろそうな本を手にする。それを手にして茶屋へ行く。
開店の翌安永2年(1773年)、重三郎はこの書店で吉原のガイドブック『吉原細見』を扱うことにしました。

元文5年に発行された『吉原細見』/wikipediaより引用
貞享年間(1684ー1688)頃から刊行されてきた定番売れ筋商品です。
このガイドブックの内容は、以下のように現代人から見ても納得できる充実ぶりで、いわば『吉原Walker』といったところでしょうか。
・年に二度、春と秋に発刊
・各町ごとの遊女屋リスト
・遊女の源氏名、役付け、揚代の一覧
・芸者や茶屋リスト
・名物ガイド
・紋日(イベント)ガイド
当時の吉原はテーマパークでもあります。
遊郭にあがらずとも、郭内で飲食店をめぐる観光客もいました。
重三郎が提供したのは、訪問者それぞれのニーズを満たすためのガイドブックだったんですね。
入り口そばにそんなものが置かれていれば、誰だって手に取ってみたくなるのは必然。
重三郎は目端が利き、人当たりもよかったのでしょう。
『吉原細見』を刊行する鱗形屋孫兵衛は、安永3年(1774年)から重三郎に『吉原細見』のチェック、改め役を任せることとします。
最新の情報にアップデートできているかどうか、重三郎の目を通して行ったわけです。
なお『べらぼう』の劇中で鱗形屋孫兵衛を演じるのは片岡愛之助さんですので、当時の江戸でも重要人物だったとご想像いただけるでしょうか。
その詳細については以下の記事にございますので、よろしければ併せてご覧ください(記事末にもリンクがございます)。
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『べらぼう』片岡愛之助が演じる鱗形屋孫兵衛~史実では重三郎とどんな関係だった?
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吉原ブランドを高めるインフルエンサーとなる
一日千両の金が落ちる吉原で、書物の可能性を見出した蔦屋重三郎。
吉原に詳しく、センスの良い重三郎は、鱗形屋孫兵衛にとっても非常に頼りになる存在となりました。
重三郎にしても孫兵衛から出版ノウハウを学んだり、人脈を作り上げることができるわけで、ウィン・ウィンな関係ができあがってゆきます。
この年、重三郎は『一目千本』を刊行しました。
この本は吉原のブランド戦略に一致します。
人気絵師の描く北尾重政の筆による遊女の姿は美しく、優雅でした。

北尾重政『芸者と箱屋』/wikipediaより引用
吉原にしかない高級感が漂っており、『べらぼう』の登場人物紹介において、遊女の紹介に『一目千本』と出てくるのは、本書のことです。
当時は貸本が中心の時代であり、まだまだ書物は高かった。
ゆえに、こうした書籍は直接客が買うものではなく、遊女、遊女屋、引手茶屋が馴染みの客に贈る受注形式のものと推定されています。
重三郎は、発注者にせよ、それを手に取る客にせよ、彼らの需要を理解していました。
吉原としてはブランドイメージを上げてくれる。手に入れる側からしても、コレクターズアイテムとして持っているだけで自慢できる。
なんとしても手に入れたい、そんな品だったのです。
かくして重三郎は“コレクターズアイテム”の小売やら出版を手がけるようになってゆきます。
吉原というブランドを如何にして高めていくか――『べらぼう』序盤は、重三郎のプロデュース力が見どころとなります。
当時の江戸は、吉原以外の非公認遊郭がひしめいており、金に余裕のない客は、そちらに足を向けました。
そうなると価格競争も発生し、遊女が安売りされかねない状況も出てくる。
見かねた重三郎が客を呼ぶために頭をひねるシーンがドラマの第1話から描写されていましたね。
しかし、新たな取組を始めれば、旧態依然とした既存勢力とぶつかるのが必定。
ドラマの設定だけでなく、実際、重三郎にとって転機となり得る波乱も起きることとなります。
鱗形屋の凋落と蔦屋の下剋上
安永4年(1775年)5月、鱗形屋孫兵衛がトラブルに見舞われました。
表面上は好調でも、経営には危ういところもあった鱗形屋。そんな中、手代が【重板】事件を引き起こすのです。
ドラマの人物相関図で笑顔を見せている徳井優さん扮する手代・藤八に注目。
江戸時代にも著作権の概念はあります。
無断で著作物を引き写し、刊行すれば罰則がありました。藤八が犯した【重板】は無断複製罪であり、とても『吉原細見』を刊行できる状況ではなくなりました。
そんなとき、重三郎は『吉原細見』の『籬(まがき)の花』を刊行します。
これは大事件でした。
『吉原細見』は売れ筋だけに多くの版元が扱っていましたが、この頃は鱗形屋が独占していた。
重三郎にしても、あくまで鱗形屋版を店に置くだけにすぎなかったのです。
それが鱗形屋が窮地に立ったとき、突如、競合商品を出してきた。
鱗形屋からすれば「恩を仇で返しやがった!」と激怒してもおかしくはないところでしょう。
しかも重三郎は小型本(15.7X11.0センチ)から中型本(19.0X13.3センチ)にサイズを大きくするというリニューアル版で発行。
レイアウトも見直し、吉原内部を各町ごと上下に分けて配置したのです。
おまけに割安で、何より重三郎の確かな目によって中身の情報は充実しておりました。
見やすい。
情報が新しい。
しかも、安い!
こうなっては誰もが重三郎版に飛びつくのが当然でしょう。
鱗形屋はそのまま不振を挽回することができず、江戸の街からひっそりと消えてゆくことになります。
ただし、鱗形屋が出版業や重三郎と縁が切れたわけではありません。
鱗方屋孫兵衛の子は、蔦屋重三郎のライバルとなる西村屋与八の養子となるのです。ドラマでは三浦獠太さんが演じますので注目ですね。
さらに、重三郎はこのころ『雛形若菜の初模様』という錦絵シリーズも刊行しました。
吉原にいる遊女、新造、禿(かむろ)たちが描かれたものであり、廓の外の客が目にすることで、吉原のイメージを高める役割が果たせました。
この刊行には西村屋与八も名を連ねております。
重三郎は吉原のブランド戦略を担いつつ、メキメキと力を伸ばしていったわけです。
吉原の外に目を向け、書籍販売を模索する
誌面を刷新した『吉原細見』で、新風を吹かせた蔦屋重三郎。
これぞまさしく、江戸出版界の下剋上と言えるでしょう。
蔦屋重三郎は一代で、鱗形屋孫兵衛を討ち取ったようなものであり、『べらぼう』序盤で最も盛り上がる局面だ!――と言いたいところですが、鱗形屋の失墜は、その下で出版を担っていた蔦屋に暗い影を落とすものでもあります。
ここをどう切り抜けるか、重三郎の才知が試される局面でもありました。
重三郎はただジッとしていたわけではなく、人脈形成にも動いていたのでしょう。
鱗形屋で本を出せなくなった文人たちに目をつけ、次に売れるモノを物色していたのです。
そして安永9年(1780年)、重三郎は15種もの書籍を刊行しました。
『吉原細見』だけでなく、バラエティに富んだものであり、ざっと以下のようなラインナップです。
・黄表紙:当時ブームだったフィクション。現代ならば小説
・洒落本:現代ならばジョーク集
・咄本:現代ならば短編集
・往来本:手紙の文面から教養を身につける実用書
既にベストセラー作家となっていた朋誠堂喜三二の手がけた黄表紙までありました。

朋誠堂喜三二(平沢常富)/wikipediaより引用
黄表紙作家といえば恋川春町が人気でしたが、絶頂期にありながら彼は筆を置いてしまい、朋誠堂喜三二はその穴を埋める作家として注目を集めていたのです。
彼の黄表紙に『吉原再見』の挿絵で知名度を上げていた北尾政演が絵をつけるとなれば、売れないはずのない手堅いものといえる。
かくして、蔦屋重三郎が吉原から飛び出す準備は着々と進んでゆきました。
狂歌ブームの波に乗り、さらに熱狂の波を起こす
天明3年(1783年)、蔦屋重三郎は日本橋通油町に新たな店を構えました。
この場所は、現代日本ならばさしずめ東京都千代田区神田神保町といったところ。出版業界がズラリと軒を並べる場所です。
世襲全盛の江戸時代において、成り上がり者がたった一代でその場所に店を構えたのは衝撃的な事件でもあります。
この天命期に重三郎が商機を見出したのが【狂歌本】です。
狂歌ブームに沸いていた天明期の江戸。
狂歌の重要な点は、ネットワークが築けるということです。
仲間で詠みあいながら楽しむ伝統的な遊びであり、【狂歌本】はそんな会合での歌をまとめたアーカイブといえます。
この分野に乗り出して名を売れば、たちまち人脈が形成できるというメリットがありました。
そうした状況にも目をつけながら、さらにもう一工夫加えるのが重三郎の卓越したセンスであり、彼は【狂歌本】に美麗な挿絵をつけて売り出しました。
『画本虫撰』は歌に見立てた虫が描かれ、現在も刊行されています。そのことからも、重三郎のセンスが理解できるでしょう。
もしも狂歌だけならば、パロディのネタが理解しにくい現代人にとっては、需要がありません。
しかし美麗な虫の挿絵がつくことで、手に取って眺めたくなるのです。一過性になりかねないブームに、長く手元に置きたくなる価値を組み合わせたのでした。
挿絵を手がけたのは喜多川歌麿です。

ライバル・鳥文斎栄之の描いた喜多川歌麿/wikipediaより引用
彼が挿絵をつけた狂歌本は『百千鳥狂歌合』や『潮干のつと』もあり、まとめて三部作とみなされます。
この挿絵を手がけたのが喜多川歌麿というのも重要な点です。
田沼時代斜陽とともに翳る江戸の出版界
2024年大河ドラマ『光る君へ』は、『源氏物語』の世界観よりも、当時の政治劇の比率が高いとされました。
紫式部があれほどの長編物語を執筆する上では、大量の紙が必須となる。スポンサーである藤原道長が重視され、政治家としての出世がプロットを貫いていました。
2025年も、時代背景の政治劇は必須となることでしょう。
金なし、親なし、家もなし――そんな蔦屋重三郎がたった一代で吉原を飛び出し、次から次へとヒットを飛ばせたのはなぜなのか?
それは彼の才能だけでなく【田沼時代】の申し子であったことも大きいのです。
一代で成り上がる。
人脈形成が巧みである。
センスに優れている。
そんな長所が似通っているのが、田沼意次と蔦屋重三郎と言えるでしょう。

田沼意次/wikipediaより引用
【田沼時代】が爛熟した天明年間ともなりますと、江戸っ子たちはその政治を皮肉って楽しむようになりました。
何せ、世の中、金、金、金……と、総収賄ワールドになってしまった結果、華美な暮らしを送る田沼近辺の連中を見て、江戸っ子たちは舌打ちをしていたのです。
そんな世の流れから売れ筋を読み解いた重三郎は、政治批判を絡めた【黄表紙】で一儲けしました。
しかし【田沼時代】に翳りが見え始めると、重三郎たちにも影響が及んできます。
天明年間は、火山噴火とそれに伴う大飢饉が発生し、政治不満が高まっており、それもこれも贈収賄ばかりしている田沼意次のせいではないか!と、民衆の不満が高まってゆくのです。
泥の時代が終わったが、清き水には息が詰まる
出自がものをいう古参の幕閣たちも、新参者である田沼の権勢に対し、冷たい目を向けていました。
そして天明4年(1784年)、事件は起きます。
田沼意次の嫡男であり、異例の若さで若年寄に上り詰めていた田沼意知が、江戸城内で切り付けられ、これが元で命を落としたのです。
犯人は「三河以来」の旗本である佐野政言。

田沼意知(左)に斬りかかる佐野政言/国立国会図書館蔵
佐野は江戸っ子たちから拍手喝采で迎えられ、「世直し大明神」と称えられました。それほどまでに田沼親子は憎まれていたのです。
その約2年後の天明6年(1786年)、10代将軍の徳川家治が亡くなると、後ろ盾を失った田沼意次は失脚。
さァこれで、田んぼや沼地のように濁った世の中もオシマイだぜ!
江戸っ子はそう欣喜雀躍したものでした。
流行をめざとく嗅ぎつける重三郎周辺の文人も、これにははしゃぎます。
山東京伝はじめ、田沼意知の惨殺をおちょくる【黄表紙】を刊行し、一儲け狙っていたのでした。
テロリストの佐野政言を讃え、人の死をおちょくる主役周辺の空気をどう描くのか。それもドラマの見どころとなりそうですね。
しかし、世の中そううまくはいきません。
【田沼時代】の追い風に乗っていた重三郎とその仲間たちは、風を失い失速することになるのです。
暗雲たちこめる天明 そして寛政へ
寒冷な気候の影響を受けて発生した【天明の大飢饉】。
陸奥(東北地方)では凄まじい数の犠牲者を出す中、

飢える庶民たちの様子(天明の大飢饉)/wikipediaより引用
白河藩(陸奥国白河郡白河・現在の福島県白河市)では一人も餓死者を出さなかったとされます。
藩主は松平定信です。
それだけ有能な人物であれば、濁り切った田沼の水を、白河のようにサッパリとしてくれるだろう――彼が老中になったとき、江戸っ子たちはそう期待したものでした。
しかし、それは程なくして裏切られます。
田沼意次の経済政策は、停滞した時代を動かすために必須の要素が多分に含まれており、松平定信が行う【寛政の改革】でも、その路線を無視できないどころか、踏襲することもあったのです。
そりゃあいきなりガラリと変えられるわけもありません。
後世からすると「ならば田沼時代をそのまま続けておくべきだったでしょ!」と思うところなのですが、それを理解するには、近世日本の経済事情を見ておく必要がありそうです。
近世日本の経済には、奇妙な点がありました。
それは隣国の清と比較することでわかりやすくなります。
清に対しては、西洋諸国から茶葉や絹糸への需要があり、産業を高めれば高めるほど国家財政が潤う状態となっていました。なんせ清は、当時の世界の総GDPのうち三割を占めていたというほどです。
長年、制限外交を続けていた江戸幕府だって、そんな清を意識していなかったはずがありません。
対清貿易では【俵物】と呼ばれるナマコ等の高級食材を輸出していました。
さらに【田沼時代】を代表する才人と言える平賀源内は、日本の陶磁器改良にも挑んでいます。
シノワズリ(中国趣味)ブームに沸くヨーロッパに、日本産の陶磁器を売り込みたい目論見がありました。
そして蝦夷地にも商機を見出します。
ロシアは日本との交易を望んでいる。
ならば蝦夷地を開拓し、ロシアと交易してこそ道が開けるのではないか?
田沼はそう考えていたのです。

伊能忠敬『大日本沿海輿地全図』の蝦夷地/wikipediaより引用
いわばグローバル経済を見据えていたわけで、これに急ブレーキをかけてしまうのが松平定信でした。
意次と定信では異なる点もあり、かつ両者には遺恨もありました。
田安徳川家に生まれ、吉宗の孫であることを誇りとしていた定信。
徳川家治の嫡子である徳川家基が亡くなると、次期将軍の座をめぐり、様々な駆け引きがありました。
定信にも家治の次の将軍となる道はありました。
しかし、一橋家に近い田沼意次の動きもあり実現させられません。
将軍になるには色々な要素が絡んではきますが、定信は機会があれば刺してやりたいと願うほど、意次を憎んでいたのです。

松平定信/wikipediaより引用
この反発と、吉宗の孫というプライドが、彼を質素倹約へと志向させます。
松平定信の政策をまとめますと、グローバル経済を見据えて日本全体のGDPを高める方針は止め、民衆に至るまで質素倹約を徹底させたのです。
徳川吉宗と田沼意次による政策の不完全な継承と言いましょうか。
その結果、庶民にとっても、踏んだり蹴ったりの状況がやってきます。
せっかく中国趣味やら蘭学やらに開眼していたのに御法度とされてしまう。
代わりに押し付けられたのが「文武両道」だの「質素倹約」だの旧態依然としたものでした。
なんとまぁ、ストレスフルな時代――それをどうにかしようと思っても、気分転換のための娯楽すら政策で締め付けられてしまっているのです。
幕府、出版業を締め付ける
松平定信の時代、幕府は蔦屋重三郎たちと仲良くしている文人サロンの連中にも目を光らせ始めました。
【黄表紙】や【狂歌】に【狂詩(パロディ漢詩)】を手がけ、おもしろおかしく武士の世を笑い飛ばす――そんな連中の中に、武士出身の文人がいては、示しがつかないにもほどがある。
実際問題、このころの武士は副業をせねば食うに困る、暗い時代を迎えていました。
彼らの俸禄は基本的にあがりません。
往年の時代劇では仕官先を失った浪人が、傘張りのような内職をしていますが、実は仕官先のある武士ですらこなしていました。
例えば鎌倉には「鎌倉彫(かまくらぼり)」という特色ある美しい漆器があります。
江戸時代にあの漆器を手掛けていたのは専業の職人だけでなく、食べていけない旗本御家人も含まれていたのです。
日本の特産品は、実は武士の副業だったものが多いんですね。
そうした内職に手を染めるならまだいい。
しかし、ボヤキだの武士としての教養を【黄表紙】なんぞに反映させてベストセラーを生み出すライフハックなぞ、武士の堕落でしかない――幕府としては当然とも言える結論を出します。
かくして、重三郎と近い武士出身の文人たちは、寛政の改革によって大打撃を受けました。
・大田南畝→活動自粛
・朋誠堂喜三二→断筆
・恋川春町→断筆後に急死、自殺か?
もはや武士の作家は使えない――そんな状況で蔦屋重三郎が押し出したのは、粋な町人出身の文人である山東京伝でした。

山東京伝/wikipediaより引用
弟も、夭折した妹も文才がある、華麗なる一族の出と言える山東京伝。
彼のセンスと才能は際立っていましたが、メンタリティはそこまで頑健とはいえません。
幕府から処罰を受けると士気が低下してしまいます。
食うに困っている武士とは異なり、山東京伝は商売人としても稼ぎはあり、どうしても書かなければならないわけではない。
となると【黄表紙】の次を見出す必要がありました。
喜多川歌麿をプロデュースする
蔦屋重三郎は、江戸の文人ネットワークの中で浮世絵師とも交流を重ねてきました。
吉原の遊女を美麗に描くにせよ、【狂歌本】に挿絵を入れるにせよ、彼らの協力なしでは商売が回りません。
北尾重政、勝川春章、礒田湖龍斎など、名のある絵師とは顔見知りでした。
平賀源内が多色刷り版画技法を確立して以来、【浮世絵】の売れ筋も確たるものとなっております。
【肉筆画】とは異なり印刷できるだけに単価は安く、「蕎麦一杯の値段」で買えることが人気の一因とされています。
しかし質素倹約の流れはどうしたって受けます。
かつて重三郎が企画し、売り出してきた【浮世絵】は豪華なものでした。
天女のように美しい吉原遊女を描く作品ともなれば、高級感はマスト。
遊女以外の女性がモデルであるにせよ、現実離れしているほどスラリとした美女を描いてこそ【美人画】です。
モデル体型のスレンダー美女が豪華な着物を着こなし、名所の前にたたずむ作品が人気でした。
呉服屋ともタイアップしており、ファッションカタログとしての役目も果たしていたのですが、こんな豪華路線を幕府が許すはずがありません。
庶民的な売れ筋を探ることが重三郎の直面した課題でした。
誰もが見たことのない、浮世絵を売り出す――プロデュース力が試される局面。
それまでの彼は、培ってきた既存の文人ネットワークを踏み台にしてのし上がってきたものでした。
教養は不足していても、胆力があって豪快。そんなコミュニケーション力の高さを活かしてのことでしたが、今度は、一から流行を生み出す方向へ進まねばなりません。
ここで、重三郎とタッグを組んだことのある西村屋与八の姿勢を見てみましょう。

初代・西村屋与八/wikipediaより引用
西村まさ彦さん扮する彼は、気難しそうな顔をしております。
「版元が刊行するからこそ、絵師、作者、画工は世に名を売り出すことができるのだ。
連中に頭を下げてどうする。
頭を下げて頼み込むことなぞない」
あくまで自分たち版元こそ上位だという考え方ですね。
対する重三郎はどうか?
商売が軌道に乗ったころから、侠気を発揮するようになっていた重三郎。
目をつけたクリエイターの面倒を見て、励まし、大体的に売り出すプロデュースを手掛けており、そこで花開かせた大物が喜多川歌麿でした。
なにしろ名乗りの「喜多川」とは重三郎が養子に入った先から取られています。
浮世絵師は師匠の名で売り出すことが多いのに、異例のこと。
それまでも【狂歌本】等で挿絵は手掛けていたとはいえ、大々的な売り出し前の根回しは相当のものでした。
重三郎は持ち前の人脈を生かし、文人たちに期待の新人がデビューすると触れ回っていたのです。
まだ若い、実力未知数の絵師としては、それも異例のこと。
『べらぼう』では、まだ幼い唐丸に、重三郎が「一人前の絵師にしてやる」と語りかける場面があります。
重三郎と歌麿は一回り歳が違います。
あの少年が歌麿だとすると、相当長いスパンで目をかける設定になることでしょう。
横浜流星さんと染谷将太さんがどう演じるか。大きな見どころとなりますね。
誰も見たことのない、歌麿の美人画
寛政2年から3年(1790-91年)にかけて、喜多川歌麿の【美人画】が世に出ました。
手に取った、江戸っ子たちは、その絵に愕然とします。
そこには、誰もが見たことのない姿があったのです!
それまでの描かれた美女は、どこか冷たく、ツンとしていて理想化された姿でした。
様式美の世界であり、どの美女も似たような無表情を見せていたもの。
長い頭身に、美麗な衣装を身につけ、名所の前で佇む彼女たちは美しくとも、現実離れしていました。
しかし歌麿の描く美人は違った。
個性があり、表情があります。迫るような【大首絵】で、見ているうちにドギマギしてくるようなぬくもりがありました。

『ポッピンを吹く娘』喜多川歌麿/wikipediaより引用
英語圏には”girl next door”という表現があります。「お隣に住む女性」という意味です。
高嶺の花ではなく、街行く女性ならではの親しみやすい魅力があることを指し、歌麿の絵はまさしく江戸の「ガール・ネクスト・ドア」でした。
斬新かつ、この作品にはいくつもの工夫と仕掛けがあります。
まず、表情のある【大首絵】。
歌舞伎役者を描く【役者絵】において、勝川春章が取り入れていた技術を応用したといえます。
【大首絵】のデメリットとしては、着物の模様と背景を入れにくいことがあります。
しかし、これをかえって活かしているといえます。高級感あふれる着物の柄は贅沢とみなされ、幕府の取り締まりにあいかねません。そのリスクを下げることができます。
アップになったぶん、髪の生え際やうなじには細やかな彫りの技術が求められます。
それに応じるだけの彫師も、この頃の江戸にはおりました。
いわば時代の風に乗った作品が、喜多川歌麿の絵であったのです。こうした工夫を歌麿一人が仕掛けたわけではなく、背後にはいろいろと知恵を絞る重三郎の姿が見え隠れします。
幕府、高まる江戸のアイドルブームを取り締まる
歌麿の絵は【地女】を描いたことも特徴としてあります。
【地女】とは、【遊女】をはじめとするプロに対しての、一般人女性という意味です。
江戸幕府創設期から江戸では男女比が歪んでおり、女性は強気でいられたものでした。
気に入らなければ夫を追い出す。
鎌倉の東慶寺に駆け込んで離縁する。
口答えするのも当たり前。
江戸っ子ならば男も女も気が強く、せっかちで、言葉遣いも荒々しい。
それが江戸の【地女】だったのです。
落語の世界で「カカアがよぉ」と夫がぼやいている対象がその典型例。
そんな女房の尻に敷かれたくないからこそ、江戸の男は吉原に向かい、“天女”にたとえられる遊女に熱をあげたものでした。
重三郎もそんな天上の美女をプロデュースすることが『べらぼう』前半となるはずです。
しかし歌麿の【美人画】は、【地女】の魅力を再発見し、会いに行けるアイドルとして見出すものでもありました。
寛政5年(1793年)頃に発表された歌麿の『寛政三美人』は、江戸を震撼させます。
歌麿は実在する水茶屋の看板娘を描いたのです。

喜多川歌麿『寛政三美人』/wikipediaより引用
絵を手にした江戸っ子たちは大興奮。
水茶屋に押しかけ、モデルとなった娘を観察し、つれない態度をとると暴れる――そんな迷惑行為までするようになりました。
こうなると幕府も「過激な追っかけは禁止、その原因となる実在するモデルの【美人画】も禁止!」としてしまいます。
ここから先は、まさにイタチごっこの世界へ。
歌麿と重三郎コンビはすり抜け工作を始めます。それとなくモデルがわかるモチーフを絵の中に描き込み、その謎解きをすれば誰を描いたかわかるようにしたのです。
これを【判じ絵】と呼びます。
やがて幕府に勘付かれ禁止にされてしまいますが、【判じ絵】は浮世絵定番技法となり、この先も続けられました。
幕末ともなると、薩摩藩や長州藩とわかるガキ大将どもが、大暴れする絵が江戸でこっそり流通していたほど。
重三郎と歌麿の仲は引き離せないようで、そうはなりません。
なんせ歌麿の絵は飛ぶように売れます。
西村屋与八は八頭身美女を描く鳥居清長や鳥文斎栄之を売り出すものの、歌麿の前ではどうしても霞んでしまう。
こうなると、どの版元も「どうすれば歌麿に描かせられるのか」と熱い眼差しを向けるようになってゆく。
歌麿もやがて、蔦屋以外からの仕事も引き受けるようになるのです。
蔦屋重三郎、山東京伝ともども罰せられる
一方の蔦屋重三郎も【浮世絵】以外に目を向けていました。
なんせ重三郎は【寛政の改革】をおちょくる【黄表紙】をさんざん出しており、幕府からは厳しい目を向けられています。
寛政3年(1791年)に出版予定だった山東京伝の【洒落本】が、出版取締令違反とされました。
山東京伝は「手鎖五十日」(手に鎖をつける刑罰)を喰らい、蔦屋重三郎は「重過料」(罰金刑)。
繊細な京伝にとっては、父・伝左衛門まで息子の管理不行き届きとして「急度叱り置き」とされたのは、衝撃的だったことでしょう。
後に曲亭馬琴は、欲に目が眩んだ蔦屋側が京伝をそそのかし、危険を承知で出そうとしたのだと書いております。

曲亭馬琴(滝沢馬琴)/wikipediaより引用
馬琴の筆がどこまで真相を伝えているのかは不明とはいえ、何か慢心はあったのかもしれません。
幕府にせよノリに乗った蔦屋と京伝を罰することは見せしめの効果が大きい。
なお、この曲亭馬琴こそ、ポスト【黄表紙】時代の売れっ子作家となります。
遊郭での恋の鞘当てを描いた【黄表紙】に代わり、【合巻】と呼ばれる挿絵入りエンタメ小説が人気となるのですが、この【合巻】を得意とする作家が馬琴であり、その代表作が『南総里見八犬伝』でした。
馬琴も、若い頃は蔦屋の手代を務めたことがあります。
妻と不仲で知られる馬琴ですが、縁談をまとめたのも、重三郎でした。
学術書に目をつけ本居宣長とも直接交渉
幕府の罰金は身代が傾くほどでもなく、鱗形屋のように蔦屋が終わりを迎えることはありません。
この刑罰の直前に、重三郎がぬかりなく【書物問屋株】を手に入れていたことも、幸運といえました。
当時の江戸出版物は、ジャンルによって管轄が異なります。
学術系:書物問屋
エンタメ系:地本問屋
重三郎が【書物問屋株】を手にしていたということは、学術書に手を広げてもよいということ。
折しもこの時代は、学問への熱が高まっていました。
【寛政の改革】では文武両道が奨励され、学問を学ぶことが奨励されています。
【国学】もブームの兆しを見せています。
日本の歴史を見ると、海外の文化を称揚する時期と、日本文化を求めるようになる時期と、交替してブームが訪れます。
吉宗以降の蘭学ブームは【田沼時代】終焉と共に収束し、【国学】への熱が高まっていた。
幕末前夜ともいえる流れです。
重三郎もめざとくこれに目をつけ、錚々たる国学者と接触しています。
江戸在住の加藤千蔭、村田春海です。
寛政4年(1792年)には加藤千蔭『ゆきかふひかり』を、京都・大阪・名古屋の版元と共同出版にこぎつけました。罰金刑の翌年に快挙というほかないでしょう。
しかし重三郎にとって、加藤千蔭の出版は山の五合目といったところで頂上ではありません。
著作多数で、国学者の中でも最も名高い、本居宣長こそ大本命でした。

本居宣長/wikipediaより引用
寛政7年(1794年)、重三郎はついに本居宣長と対面を果たします。
既刊の江戸での出版権を得ることと、江戸で新刊が出せれば上出来――と、この願いは叶えられ、蔦屋重三郎は本居宣長の江戸での出版元におさまるのです。
吉原生まれでそこからのしあがり【黄表紙】や【美人画】でヒットを世に送り出してきた蔦屋重三郎。
それがお堅い【国学】の書物も手がけるのですから、なんとも凄まじいビジネスセンスではありませんか。
売れ筋定番なのに、ブルーオーシャンとなった役者絵
罰金刑という痛撃を乗り越えていた蔦屋重三郎は、またもブームを牽引すべく、新しいジャンルへ挑もうとします。
【寛政の改革】は、それまでの売れるセオリーを変えてしまいました。
【美人画】にせよ、鮮やかな着物ではなく、庶民的な姿が魅力とされるようになっていた。
【浮世絵】において【美人画】と並ぶ売れ筋は歌舞伎役者を描く【役者絵】となりますが、この【役者絵】も大変なことになっておりました。
それまでの【役者絵】は、「江戸三座」中村・市村・森田とタイアップした勝川派が独占状態でした。
【大首絵】で一世を風靡した勝川春章の弟子たちが担っていたのです。
しかし春章は既に亡く、春好は中風で右手が麻痺。
春朗という弟子は独自性が強すぎました。なんせ後の葛飾北斎ですから仕方ありません。
春英が一人気を吐いていましたが、「江戸三座」が経営難で休座に追い込まれてしまうと、【役者絵】という売れ筋に大きな穴が開いてしまいます。
空白になった何を売り出すのか?
ここで重三郎に期待を寄せていたのが、歌麿と想像できます。
かつて【美人画】における華々しいシンデレラ・ボーイとして世に躍り出た彼には、それなりに期待があったようです。
しかし、蔦屋重三郎が白羽の矢を立てたのは別人。
蜂須賀家の能役者・斎藤十郎兵衛――彼を「東洲斎写楽」という誰も知らぬ絵師として大々的にデビューさせ、斬新な【役者絵】を売り出そうとしたのです。
そして二度目の奇跡は……起きませんでした。
写楽のプロデュースは失敗した
寛政6年(1794年)5月、東洲斎写楽は華々しいデビュー作を飾りました。
28枚組の【雲母摺】(きらずり)とは異例です。
雲母摺とは雲母を背景に用いるもので、江戸時代のホログラム加工であり、実に高いものでした。
浮世絵は庶民が気軽に買える、蕎麦一杯の値段が特色とされます。
重三郎は賭けに出ました。とびきりの豪華路線にしたのです。
しかし、第一弾の売れ行きがどうにも悪い。
第二弾、第三弾ともなると、紙の質もおさえられ、紙のサイズも小さめの【間判】や【半判】とされました。
リスクを取れなくなった重三郎の苦い顔が思い浮かんでくるようです。
そして第四期を最後に、絵師としての活動は終わりを迎えてしまいます。
デビューして一年も持ちませんでした。

東洲斎写楽『三代目大谷鬼次の奴江戸兵衛』/wikipediaより引用
東洲斎写楽はあまりにあっけない終焉からか、正体が謎とされ、あえて消えていったような歴史ミステリとされてきました。
しかし『べらぼう』ではそうしたミステリを採用しないようです。
これについてはもう決着済みといえます。要するに、売上戦略ミスといえる。売り出しに失敗した新人作家が消えた。今もよくある構図が見えてきます。
斬新なはずだ。きっと売れるはずだ……しかし写楽の絵を手にした江戸っ子は首を傾げてしまう。飛ぶように売れ、新時代を築く【役者絵】を手掛けていたのは、歌川豊国でした。
そんな状況は、重三郎にとっても、写楽にとっても、針の筵であったことでしょう。
歌麿はこうした状況を苦々しい顔で眺めていたようで……このころ蔦屋以外の版元から、当てつけのように作品を発表していたのでした。
それでも写楽プロデュースが失敗した寛政7年(1795年)となると、歌麿は久々に蔦屋から作品を出版します。
和解があったのでしょう。
曲亭馬琴と十返舎一九を見出す
大博打に敗れたような蔦屋重三郎。
しかし、その眼力が衰えていたわけではありません。
重三郎はその侠気で、次代を担う文人を見出していました。
一時は蔦屋のもとで手代を務めたこともある曲亭馬琴です。
山東京伝のもとにいたこともあるこの武士出身の文人は、作家としてすでに頭角を見せ始めておりました。
文武を奨励する世相は、頑固で生真面目な彼の性格と一致。
武士道の華々しさと勇猛果敢な武士が躍動する彼の作品は、江戸時代を代表するエンタメとなるのでした。
蔦屋の食客として身を寄せ、雑用や挿絵仕事をこなしていた中に、十返舎一九もおりました。
弥次さん喜多さんの道中記である『膝栗毛』シリーズを大ヒットさせる作家です。

十返舎一九/国立国会図書館蔵
その最期まで、江戸っ子らしく、粋だった蔦重
寛政8年(1796年)5月6日、蔦屋重三郎は病床にいました。
蔦屋の後始末をし、妻との別れを済ませ、こう言います。
「今日の昼、十二時には死ぬだろう」
しかし、予言を過ぎてもまだお迎えが来ません。
苦笑して彼はこうつぶやきました。
「命は終わったってのに、幕引きを告げる拍子木がまだ鳴らねえもんだな……遅ぇよ」
これが彼の最期の言葉でした。そのまま口を開くことはなく、その日の夕刻には帰らぬ人となりました。
享年48。
死因は脚気とされます。
「耕書堂」は営業を続け、蔦屋重三郎は五代目まで数えるものの、初代以上の輝きを取り戻すことはありませんでした。
★
世襲が当然の江戸時代において、一代でのしあがった蔦屋重三郎。
日本人にとって馴染み深い作品を世に送り出すだけでなく、世界的に知られる浮世絵供給の背後にもおりました。
現代日本のエンタメを牽引する「蔦屋書店」屋号と一致し、2025年には大河ドラマ主役に選ばれています。
民衆が牽引した日本文化を築き上げた一人として、彼の業績はこれからも残されてゆくことでしょう。
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【参考文献】
安藤優一郎『蔦屋重三郎と田沼時代の謎』(→amazon)
松木寛『蔦屋重三郎』(→amazon)
小林忠『浮世絵師列伝』(→amazon)
深光富士男『浮世絵入門』(→amazon)
小林忠/大久保純一『浮世絵鑑賞の基礎知識』(→amazon)
田辺昌子『浮世絵のことば案内』(→amazon)
田中優子『江戸はネットワーク』(→amazon)
他





