なぜこんな生真面目な人が作家などやっているのだろう?
大河ドラマ『べらぼう』の恋川春町を見ていて、そんな違和感を抱きませんでしたか。
春町の相棒である“まぁさん”こと朋誠堂喜三二なんて「吉原で遊ばせてくれるなら書く♪」とウキウキする程なのに、恋川春町と来たら、終始ムスッとした顔で蔦屋重三郎を睨みつけるばかり。
最も大切なのは義理だ!とばかりに鱗形屋孫兵衛に対しても筋を通し、耕書堂のもとで新たな本を発行しました。
しかし、彼が生真面目な性格であるのは、史実面を鑑みるとその通りなのかもしれません。
恋川春町は「黄表紙」の祖として一世を風靡し、その後『鸚鵡返文武二道』で記録的な売上をあげると松平定信に叱責され、その後、自害するのです。
それが寛政元年(1789年)7月7日のこと。

恋川春町『金々先生栄花夢』/国立国会図書館蔵
ドラマでもそんな哀しい展開を予感させる――史実における恋川春町の生涯を振り返ってみましょう。
文武が融合してゆく日本の武士
時は明治のこと――元幕臣であった福沢諭吉は【廃刀令】を歓迎。
皮肉をこめて「武士なんて、そもそも刀の使い方を忘れていた」と論じました。

これは何も福沢の誇張でもなく、幕末ともなるとむしろ武士のほうこそ戦えない集団であり、例えば京都の治安を担った新選組幹部は多摩の豪農層出身です。
いったい武士とは、いつ頃からそんな存在となってしまったのか?
今回の主役・恋川春町こそ、そうした変わり目に生きた侍の典型例と言えるでしょう。
武士はもともと、貴族に代わって武力行使する者たちのことを指しました。
貴族も弓を装備しながら、宿直(とのい)の警護に当たりはしますが、実質的には文官と言える。
それに対し、武官であるのが武士であり、鎌倉幕府ではその創始にあたり、京都から大江広元らの【文士】を呼び寄せています。
結果、武士は、武官でありながら文官としての役目も果たす、日本独自の発展を遂げてゆきました。
それだけに、ひとたび戦が無くなれば、武人としての側面より、文人としての教養が重視されるのも自然の流れなのでしょう。
江戸時代、後期ともなれば、まさにそのときを迎えていました。
当時の社会的進歩はめざましく、印刷はじめ、商業も流通も十分に発展。
だからこそエンタメでも金を稼げる――そんな煮詰まった近世社会が出来上がってゆきます。
武士とは主君に仕えて俸禄を得るもの……だけではなく、お上に仕えずとも、己の才覚で食い扶持を稼ぐという道が開けたのです。
平賀源内がその一例ですね。
ドラマでもそう描かれましたように、マルチな才能で食べていく彼こそ、時代を象徴する人物といえました。

平賀源内/wikipediaより引用
では、恋川春町はどうだったのか?
百石取りの武士・倉橋格
後に「恋川春町」と名乗る人物は、延享元年(1744年)、紀州徳川家附家老・安藤次由家臣であった桑島勝義の次男として生まれました。
このころは徳川吉宗が将軍職を退く直前のこと。

徳川吉宗/wikipediaより引用
時代が進むにつれ、武家の存続もなかなか難しくなって養子が増え、春町もまた、父方の伯父・倉橋勝正のもとへ出されました。倉橋姓となったのです。
そして明和8年(1771年)に藩主の松平昌信が没し、松平信義が新たな藩主となると、彼は順調に出世を重ねてゆきます。
安永5年(1776年)、養父が隠居すると家督を相続し、百石取りへ。
藩政にも携わるほど順調に出世を遂げるのです。
武士として教育の機会に恵まれ、地位も高くなった彼には、新たな趣味ができました。このころから「酒上不埒」という筆名で狂歌を詠み、一派を立てるほど夢中になったのです。
天明7年(1787年)には年寄本役、120石にまで加増されました。
ところが、この翌天明8年(1788年)、思わぬ事態が起こります。
彼は黄表紙『鸚鵡返文武二道』という作品を執筆していました。
その中身では、ときの老中・松平定信の政策批判が含まれていて、寛政元年(1789年)に幕府から呼び出された彼は、病と称し出頭を拒み、4月には隠居しました。
そして寛政元年7月7日(1789年8月27日)、突如、亡くなるのです。
状況から自殺とされることもあり、死後は成覚寺に葬られたのでした。
文人・恋川春町
武士としての倉橋格は、江戸時代によくいた典型的な像ともいえます。
一介の武士としてならば、歴史に名を残さなかったことでしょう。
しかし、文人としてみれば卓越した才知がありました。
東アジアにおける文人の特徴として、書道や絵画、詩など、活躍のジャンルを跨ぐことが挙げられますが、恋川春町もまた、絵も文も手がける才人でした。
絵も文も、習えば習うほどぐいぐい伸びてゆく。
そして彼の一生とは【黄表紙】によって運命付けられたといえます。
武士としての倉橋格(いたる)は【黄表紙】ゆえに命を縮め、作家としての恋川春町は【黄表紙】ゆえに名を残した、そんな宿命でした。
ではいったい【黄表紙】とは何なのか?
安永4年(1775年)、恋川春町が発表した『金々先生栄花夢』がその祖とされ、一体どんな作品なのか?
その内容を見てみましょう。
黄表紙の祖『金々先生栄花夢』
『金々先生栄花夢』は現代でも通じるような、俗的で示唆に富んだ内容です。
ざっとまとめておきましょう。
『金々先生栄花夢』
昔むかし、とある田舎に金村屋金兵衛という貧しい若者がいました。
金兵衛は、そうだ、俺も江戸で出世しよう――と思い立ち、目黒不動へ向かいます。

恋川春町『金々先生栄花夢』より引用/国立国会図書館蔵
そして門前の粟餅屋で、餅を注文しました。
「へえ、いま粟餅を蒸しますんで、お待ちくだせえ」
そう言われ、金兵衛が奥座敷で枕に頭を乗せると、そのまま眠り込んでしまいます。
するとそこへ、駕籠に乗った立派な身なりの者が現れ、驚きのことを告げてきます。
なんと金兵衛は、大富豪・泉屋清三の番頭とのこと。清三が隠居するにあたり、金兵衛を後継としたというのです。
かくして駕籠に載せられた金兵衛が泉屋に向かうと、清三がいました。清三は「ぶんずい」という名で隠居する。そこでぶんずいの養子として、泉屋を継ぐこととなった。
「金々先生!」
名前からそのように呼ばれるようになると、蜜に群がる蜂のように、金目当てで人がわらわらと寄ってくる――金兵衛はどんちゃん騒ぎをして遊び呆け、金を湯水のように使い果たしました。
落ちぶれても遊ぶことしかできない金兵衛。
ぶんずいはそんな金兵衛を追い出すことにします。
涙ながらに泉屋を去る金兵衛……と、思ったら、粟餅が炊き上がる香ばしい香りがするではありませんか。
ここで金兵衛は、成り上がりも転落も、粟餅が炊ける間の夢だと悟りました。
成功なんて儚い夢だ――。
そう悟った金兵衛は、江戸で成り上がるビッグな夢は忘れ、故郷に戻ったのです。
他愛のない話のようですが、風俗描写や江戸で遊び呆ける様に対して批判的であり、そこが斬新とされた作品です。
そして大きな特徴として「中国古典を下敷きにしている」ということが挙げられます。
中国古典を下敷きにしてブラッシュアップ
『金々先生栄花夢』は、沈既経『枕中記』による、唐代の伝奇小説を元にしています。
盧生(ろせい)という書生が、邯鄲で道士の呂翁から枕を借りて昼寝をしていた。
立身出世し、やがて転落するまでの夢を見た盧生が目覚めると、粟の飯がやっと炊けるところだった。
人の一生の不沈なぞ、所詮は儚いものだ。
という話です。
この話を元にして、
・邯鄲の夢
・盧生の夢
・黄粱の一炊
・一炊の夢
といった言葉があります。
大河ドラマでも『麒麟がくる』において、松永久秀がこう言い、自害しました。
「げに何事も一炊の夢……」
あるいはドラマ10『大奥』の加納久通は、死を前にして、主君である吉宗にこう語ります。
「一炊の夢を見させていただきました。よき夢にございました」
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こうした台詞は、言うまでもなくドラマ上での話。
つまりフィクションですが、同時代の武士であれば、己の一生を振り返ってそう言ってもおかしくない、だからこそ語られています。
博打で負けてすってんてんになった江戸時代前半の江戸っ子ならば「人生こんなもんだ」と自嘲するかもしれない。
一方で、武士となれば「げに一炊の夢であるな」となるほうが自然というわけですね。
『金々先生栄花夢』は、今も現物が保存されていて、誰もが閲覧できます。

恋川春町『金々先生栄花夢』/国立国会図書館蔵
大きく絵の入った本であり、そう長くもない。
メインとなる夢の部分は、どんちゃん騒ぎをする虚栄のパリピライフであり、軽い読み物のようにも思えますが、中国古典の枠組みに嵌め込んだことで、ブラッシュアップされた。
物語を読み、本を置いた読者はこう考える。
「ほほう、これが一炊の夢か……」
かくして庶民が暇つぶしで読む類の本が、文学の一ジャンルとなった――【黄表紙】の誕生です。
大人が読むに足る。
知的好奇心を高める。
現実を批判する写実性もある。
そんな格の高いジャンルとして扱われ、主に【黄表紙】の著者は、恋川春町のような武士出身者が多いものでした。
なぜなら彼らは幼い頃から漢籍に触れる機会が多いため、自然とその教養が本の中に盛り込まれることになり、読者の知性が磨かれる一石二鳥の側面があったからです。
紫式部の『源氏物語』にしても、先行作品より漢籍教養が豊かであればこそ、高尚なものとされました。
日本の文学は、漢籍教養を盛り込むことで洗練させるのが伝統的とも言えるんですね。
そんな武士出身の文人作家として、新ジャンルを築き上げた恋川春町。
しかし、作家として名声を高めると、反比例するかのように、武士としての倉橋格の命を縮めたのだから、皮肉なものでした。
黄表紙はやがて町人へと広まってゆく
恋川春町は、さらに読み応えのある【黄表紙】を求めた結果、幕政批判までおよぶ『鸚鵡返文武二道(おうむがえしぶんぶのふたみち)』を寛政元年(1789年)に執筆。
記録的な売上になったとされ、その結果、幕府(松平定信)から呼び出され、彼はその生涯に幕を閉じてしまいます。
同年(1789年)7月7日に自殺したと伝えられるのです。

松平定信/wikipediaより引用
病死の可能性もありますが、武士としてはタブーである幕政批判に触れてしまえば、自害に追い込まれても仕方ないことかもしれません。
とにかく筆により命を縮めたことは確かでしょう。
そして【黄表紙】の作家は、武士ではなく、町人へと変わってゆきます。
この変化は江戸時代の歴史において、大変重要な流れといえます。
実は【士農工商】の流れはそこまで確固たるものではなかったと、近年は見直されつつあります。
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武士とそれ以外を分ける要素として、教育や文書作成能力があげられますが、徳川吉宗は明代の政策を参考にしながら、庶民にまで儒教規範や教育を広めました。
結果、日本各地で寺子屋が設置。
特に都市部では、めざましい成果となりました。
その背景にあったのが出版文化です。
印刷術が伝わり、書籍の流通量が上がる。ヒット作を敢行すれば金になる。そして、武士が担ってきた教養を込めた【黄表紙】のような作品を町人が手がけるようになってゆく。
江戸時代後期は、日本人の教育レベルを上げる時代となったのです。
知的好奇心で学ぶ日本人の姿が
歴史を振り返ると、教育は時代を動かす大きな原動力となります。
例えば、ロシアの場合、啓蒙思想が伝わると、エカテリーナ2世はそれを広め、孫でアレクサンドル1世も、フランス人家庭教師から開明的な教育を受けました。
しかしロシアでは、あえて農奴と呼ばれる下層階級には文字を覚えさせませんでした。
上流階級はフランス語を用いることで、教養はますます断絶。
識字率の向上により、思想を持った民衆の蜂起を警戒したのでしょう。
【ロシア革命】の実現までには、まず教育が必要とされました。
だからでしょうか。幕末に来日した外国人は【瓦版】を読み漁る民衆の姿に驚きました。

瓦版/Wikipediaより引用
ロシア以外のヨーロッパでも、識字率向上には程遠い状況だったのに、この極東の国では庶民が文字を読み漁っている!――そう驚愕したのです。
ただし、注意が必要です。
来日外国人が接した層は、比較的上層にあたる都市部の住民であり、山村の農民や女性の識字率はそこまで高くありません。
サンプルに偏りがあることは注意せねばなりません。
日本の隣国であった清朝では、教育はあくまで【科挙】を突破するため。
学習意欲は立身出世のために用いられ、知的好奇心で学んだり、楽しいから学習するといった認識は育まれにくかったのかもしれません。
科挙から落ちこぼれた知識人層は様々な分野で見られるますが、どうしてもレールを外れた負い目がつきまとっていた。
明治維新後、日本には魯迅はじめ、清朝からの留学生がやってきます。
なぜ日本では、近世から近代へ変貌を遂げられたのか?
なぜ清ではうまくいかないのか?
そんな疑念を抱きながら日本へ来た彼らは、いざ来日してさらに驚きました。
日本には漢籍が大量に残されていて、漢詩を読みこなす者もいたからです。
【科挙】云々などは関係なく、自分たちの知的好奇心で学ぶ日本人の姿がそこにはありました。

こうした都市部における識字率の高さ。
漢籍教養。
これがどうやって浸透していったのか?
様々な理由が考えられる中で【黄表紙】は非常に重要です。
漢籍からの知識というフレームの中に物語を入れ込むことで、エンタメ性だけでなく教養の底上げを果たした。
この仕組みは大きな発明と言えるでしょう。
残念ながら現在では、日本人の漢籍教養は薄れ、その影響下にあった江戸の文学も忘れ去られつつあります。
しかし、明治維新という改革を果たすため、都市部庶民層まで浸透していった教養が重要な役割を果たしてきたことは確かなのです。
2025年の大河ドラマ『べらぼう』が、そんな歴史認識を再確認させる契機となることを願ってやみません。
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【参考文献】
八鍬友広『読み書きの日本史』(→amazon)
加藤徹『漢文の素養 漢文の素養 誰が日本文化をつくったのか?』(→amazon)
『金々先生栄花夢』
他






