なぜ田沼意次は、平賀源内に文書偽造させてまで、賢丸(まさまる)を追い出したかったのか?
大河ドラマ『べらぼう』第4回放送を見て、そんな疑問を持たれた方が少なくないようです。
確かに彼はまだまだ若い。
堅苦しい性質で頑固で、何かといえば吉宗の意向を振りかざすことは劇中でも描かれていますが、文書偽造というリスクを背負ってまで警戒しなければならない人物とは思えない。
いったい意次は、どうした? ドラマゆえの誇張だからか?
というと、あながち荒唐無稽でもないのが、史実における
という三者の複雑な関係です。
ドラマの第2回放送でも、生田斗真さん演じる一橋治済が傀儡師として田沼意次と共に振る舞い、これに対して田安賢丸(松平定信)が激怒するシーンがありましたが、史実でも、この三者が絡み合う政争があったからこそでしょう。
ではそれは一体どんな内容だったのか?
田沼意次と松平定信の背後で奇妙な政治力を発揮する一橋治済にも注目しながら、当時を振り返ってみましょう。
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徳川御三卿・一橋家二代当主
江戸幕府を開いた初代家康は子沢山でした。
単なる好色というわけではなく、政権安定のためには多数の男子が必要であると痛感していたのでしょう。
なんせその直前の天下人・秀吉による豊臣政権は、跡継ぎ問題がその崩壊の大きな一因となった。
ゆえに子を沢山をもうけたわけですが、子孫の代まで安定的に続くとは限りません。
実際、2代徳川秀忠の時点で、側室はなく、嫡出の男子は2名だけ。
3代の徳川家光にいたっては男色を好んでなかなか男児ができず、春日局をはじめとする周囲を多いに焦らせたものです。
結果的に秀忠の血筋は途絶え、8代は御三家・紀州から徳川吉宗を迎えることになり、
御三家だけでなく吉宗と9代徳川家重の血統を基とする御三卿が置かれることとなりました。
それが以下の通りです。
【御三卿】
田安徳川家:始祖は8代将軍吉宗三男・宗武
一橋徳川家:始祖は8代将軍吉宗四男・宗尹
清水徳川家:始祖は9代将軍家重次男・重好
大名として領地を持つ【御三家】とは異なり、御三卿は宗家の部屋住という扱い。
『べらぼう』の第2回放送では「子を成す以外にすることはない」という台詞がありましたが、確かにその通りと言えます。
一橋治済は宝暦元年(1751年)、そんな一橋家初代・宗武の四男として生まれました。幼名は豊之助です。
江戸時代も中期となると、子沢山の大名は他家に男子を養子として出すことも多い。
ましてや一橋家のような筋目正しい血ともなれば引く手数多であり、彼の兄たちも他家の養子とされていきました。
宝暦8年(1758年)、豊之助は世子とされ、同年、10代将軍・徳川家治より偏諱を賜って「治済」を名乗ると、明和元年(1764年)には一橋家2代目の家督を継いだのでした。
この年には公仁親王の娘・在子女王を正室に迎えています。
妻を迎えたとはいえまだ若く、世継ぎ誕生までは時間があり、待望の男子誕生は9年後となる安永2年(1773年)のこと。産んだのは旗本岩本正利の娘・富子でした。
一橋家と田沼意次との関係
一橋家は田沼意次と縁がありました。
意次の弟である田沼意誠が家老となり、その嫡男・田沼の意致がその跡を継ぐ。
もともと田沼氏は、徳川吉宗の代に江戸入りを果たしたときに旗本となり、意次が10代将軍・徳川家重に重用されることによって幕府中枢へのぼりつめた、いわゆる新参者です。
周囲にキッチリとした人脈を築き上げることで、体制を盤石にしておきたい。
そんなとき、一橋のような後発の良家との接近は、重要な人脈形成と言えました。
田沼意次の政治改革は多岐に渡る遠大な計画だったため、己一代だけでは達成できないことを理解できていたのでしょう。
権力の集中しやすい側用人といっても、将軍の代替わりで中枢から去っていくのが宿命。
家治の寵愛だけを頼みにしていては危うい――そう理解していたはずで、ならば何をどうすべきか?
家治は徳川歴代将軍の中では異例といえるほど、京都からきた正室・五十宮倫子と仲睦まじい夫婦でした。
しかし倫子は女子二人しか産むことができません。
そこで意次は、自らの人脈を駆使し、お知保という女性を側室とします。
お知保は男子を産み、彼が徳川家基として将軍世嗣となった。
ただし、家基はまだ若く、保険となる弟もいない……となると、まさかの時の【御三卿】が存在感を増してきます。
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