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【意次と定信の対立をほくそ笑む一橋治済】
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田安家・定信、将軍継嗣からの脱落
田安家は【御三卿】の中でも筆頭であり、一橋家より上に位置していました。
その二代である治察が、世継ぎ無きまま亡くなってしまい、弟である定国は伊予松山藩へ養子に出されていた。
そこで注目されるのが次の弟・賢丸こと定信です。
治察の亡くなった安永3年(1774年)、田安家は定信が継ぐであろう――と、本人はじめ周囲が思っていても何ら不思議はありません。
しかし、治察の死から半年も経たないわずか5ヶ月後、定信は奥州白河藩松平家との養子縁組が進められてしまいます。
田安家側はこの縁組を固辞しようとしますが、
「田沼意次から将軍の命令だと伝えられ、断ることはできなかった」
と、定信が苦々しく書き残す程です。
このとき定信は、さすがに家治の息子で将軍候補である徳川家基が亡くなるとまでは予想していなかったでしょう。
とはいえ、万が一があれば将軍を継ぐことができたかも……という思いは心に強く残る。吉宗の孫であることを誇りにしてきた定信にとって、あまりに屈辱的なことでした。
なんせ定信は
田沼意次を二度刺殺しようと考えた
とまで書き残しています。
奥州白河藩松平家との養子縁組は、それほどまでに大きな禍根を残したのです。
定信からすれば、田沼意次と一橋家の縁の深さも、動機として腑に落ちるところではあったのでしょう。
しかし、本当に得をしたのは田沼意次であったのかどうか。
豊千代を将軍世嗣とする
そして安永8年(1779年)、大事件が起こります。
家治の世子であった徳川家基が、鷹狩りの帰り道、品川の東海寺に立ち寄りました。
まだ満18歳、鷹狩りができるほど健康でした。
ところが突如、体調不良を訴え、急死してしまうのです。
病死だとか、不自然な負傷があったとか、いくつかの不吉な噂話が流れました。意次の薦める医師・池田雲拍がこのとき随行していたともされます。
父の徳川家治は半狂乱となり、大いに嘆き悲しんだことはいうまでもありません。
かくして、世嗣の候補として【御三卿】の男子が挙げられ、一橋家の豊千代を強力に推したのが田沼意次です。
『べらぼう』第2回放送で一橋治済(生田斗真さん)のもとに生まれた赤子ですね。
天明元年(1782年)、豊千代は9歳で正式な世嗣・家斉となりました。
田沼意次からすれば、完璧な筋書きであったでしょう。
次期将軍とその父である治済に恩を売り、己の政権基盤をさらに盤石にできた!と考えても何ら不思議はありません。
しかし、一橋治済はしたたかでした。
意次に取り入る連中がいると苦々しく批判し、そのことを良しとしない松平定信らにも取り入る動きを見せていたのです。
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