武器を満載したオランダ船のリーフデ号が豊後(大分県)に漂着すると「武器を積んだ船がやってくるなんてラッキー!」と徳川家康は喜びました。
しかし、これに激怒した人たちもいました。
「はああああ? オランダの異教徒海賊野郎どもがなんで地球の裏側まで来ているわけぇ?」
先に日本に来ていたスペイン人たちです。
程なくして家康は、地球の裏で起こったカトリックとプロテスタントの小競り合いに、げんなりさせられることとなります。
いったい彼らは、何故そこまで対立していたのか?
なぜオランダはわざわざ極東まで進出してきたのか?
振り返ってみましょう。
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終末論を唱える再洗礼派が広まる
1517年、マルティン・ルターが宗教批判を始めると、フランドル伯領にも彼の思想に共感する人々が現れました。
ルターの著作やパンフレットを読み、
「そだな、最近のキリスト教って堕落していると俺も思ってたわ~」
なんて考えが広まったのです。
こうした思想が拡大すると、為政者による弾圧も行われ、殉教者も出てきました。
そんな中でポッと出現していたのが「1533年末! キリストが再臨し、終末の日を迎える!」なんてことを言い出す再洗礼派の人々です。
再洗礼派というのは「真のキリスト教徒たるものは再洗礼(成人洗礼)を受け、世俗を離れた生活をすべき」という一派でした。
にしても終末論って……オカルト雑誌『ムー』みたいなノリだなwww と、思うかもしれませんね。
かつて日本でも1999年7月に世界滅亡という「ノストラダムスの大預言」が流行したのを思い出します。
結局、このときのヨーロッパも終末の日こそ訪れませんでしたが、再洗礼派は人々を引き入れることに成功しました。
彼らはあまりに言うことが極端なので、プロテスタント側からも「さすがにアレはないわぁ」と否定されることになります。
そして少数過激派が、フランドル伯領で広まっていたわけです。
1540年代になると、フランスからカルヴァン派が流入してきます。
こちらはプロテスタントでも主流派です。
それから約20年後の1561年、カルヴァン派は「オランダ信仰告白」を起草。
自分たちは再洗礼派のような過激派ではなく、穏やかなのですよ、と示そうとしたのでした。
再洗礼派には嫌悪感を抱いていた人々も、カルヴァン派ならば、と受け入れたのです。
フランドル伯領では、着実にプロテスタントが根付きつつありました。
フェリペ2世、異端審問を行う
比較的穏やかに宗教改革が信仰していたフランドル伯領。
その状況が変わったのは、1555年のことです。
スペイン王フェリペ2世が、神聖ローマ帝国カール5世から支配権を譲られたのがキッカケでした。
熱心なカトリックでもあったフェリペ2世は、国を保つためにはカトリックを掲げねばならないとして、弾圧を強めます。
1565年、フェリペ2世は、ネーデルランド執政でありパルマ公妃マルゲリータ・ダウストリアに命じて、異端審問の強化を行いました。
その理不尽さ、野蛮さ、残虐さで悪名高いスペインの異端審問が、フランドル伯領で行われることになったのです。
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