文化10年5月20日(1813年6月18日)は朋誠堂喜三二こと平沢常富の命日です。
2024年までだったら確実に「誰?」と思われるであろうこの喜三二も今や話題の人。
大河ドラマ『べらぼう』で尾身としのりさんが演じ、吉原に入り浸っては何かとネタを提供してくれるからです。
本名は平沢常富という久保田藩(秋田藩)の藩士であり、公式ページでは、こんな人物だと説明されています。
江戸城で久保田藩の留守居(外交官)を務める武士。
同時に「宝暦の色男」という異名をもち、奇想天外な大人の童話や歌舞伎の筋書きをもじったパロディーなどの偽作を書く作家である。
蔦屋重三郎の最高かつ最大の協力者となる。
武士でありながら、軽薄なニックネームを名乗り、いかがわしい作家稼業にも手を染めている。
現代ならば、公務員がYouTuberや同人誌活動で目立っているようなものでしょう。
しかも主役である蔦重にとって「最高かつ最大の協力者」とあり、ドラマの中でも多くの絵師や戯作者などとの橋渡し役や、本の企画に参入しています。
いったい朋誠堂喜三二とは何をした人物なのか?
そもそも武士なのに作家活動などできるのか?
今回は、当時の身分制度を踏まえてから、史実における朋誠堂喜三二の活動を振り返ってみましょう。

朋誠堂喜三二(平沢常富)/wikipediaより引用450
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武士は痩せ 商人が肥える時代
『べらぼう』時代の武士とは一体どんな存在だったのか?
まず最初に思い出して欲しいのが「士農工商」です。
江戸時代の身分制度を表すものとして、歴史の教科書でも馴染み深いこのシステム。
2021年大河ドラマ『青天を衝け』では、ドラマ本編の開始前に徳川家康による解説コーナーが入り、その第5回放送で「士農工商」が扱われましたが、今や古い概念であり、日本史の教科書からも消えていると説明されました。
現実には、ガチガチに固定された制度でもなかったんですね。
その詳細については以下の記事に譲り、
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実は結構ユルい「士農工商」の身分制度~江戸時代の農民や町人は武士になれた?
続きを見る
『べらぼう』の時代を見てみますと、当時は武士とクリエイターを兼任する人物が増えつつも、娯楽の担い手は都市部の町人が目立つものでした。
江戸幕府が始まった頃は、そうではありません。
舞台芸術一つとっても、武士階級が好んだ【能楽】が拡張高いものとして存在。
例えば、天下泰平が訪れたことを分かち合おうとした三代将軍・徳川家光が、能興行に江戸の民衆を招き、着飾って現れた民たちを見てことのほか喜んだという話があります。

徳川家光/wikipediaより引用
しかし、時代がくだるにつれ状況は変化。
町人こそが文化の担い手となり、【能楽】よりも【歌舞伎】が隆盛するようになりました。
経済的に見ても、武士は余裕をなくす一方であるのに対し、商人は豊かになってゆきます。
なんせ武士の石高(収入)は基本的に上がりません。
中国や朝鮮で導入されていた科挙もなく、いくら頭がよくても高待遇には繋がらず、ましてや戦もないため武功を立てられるチャンスはない。
一方で町人はアイデア次第で金儲けができる。
固定的で地味、くすむばかりの武士に対し、江戸の町人は流動的で輝く――それが『べらぼう』の時代であり、頭の切れる武士であればこんな風に考えてもおかしくありません。
「己の才知で、成り上がってみようじゃねえか!」
カネは無くても教養はある。そんな武士の頭脳を創作に活かすことができれば、本を売る版元にとって旨味のある人材となる。
そこで目端の利く連中は、生まれ育ちは二の次で、光る才能を探していました。
そのお眼鏡に適ったのが朋誠堂喜三二だったのです。
出羽久保田藩江戸詰120石の武士・平沢常富
朋誠堂喜三二は享保20年(1735年)、西村平六久義の三男として生まれました。
蔦谷重三郎が寛延3年(1750年)生まれですので、一回り年上ですね。
この時代、武家の二男以下は養子となることも多く、朋誠堂喜三二も14歳で出羽国久保田藩平沢家の養子に出されました。
平沢家は、剣豪として名高い愛洲移香斎(あいす いこうさい)を先祖に持ち、江戸詰を務める家。
朋誠堂喜三二は才気にあふれていたのでしょう。
藩主の小姓から始まり、近習役、刀番と出世を重ねてゆきますが、青年期を迎えた宝暦年間(1751−1764)になりますと、すっかり江戸で遊びを覚えていたようです。
「宝暦の色男」
そう自称していたというのですから、とんだパリピではないですか。
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