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【蔦屋重三郎】
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学術書に目をつけ本居宣長とも直接交渉
幕府の罰金は身代が傾くほどでもなく、鱗形屋のように蔦屋が終わりを迎えることはありません。
この刑罰の直前に、重三郎がぬかりなく【書物問屋株】を手に入れていたことも、幸運といえました。
当時の江戸出版物は、ジャンルによって管轄が異なります。
学術系:書物問屋
エンタメ系:地本問屋
重三郎が【書物問屋株】を手にしていたということは、学術書に手を広げてもよいということ。
折しもこの時代は、学問への熱が高まっていました。
【寛政の改革】では文武両道が奨励され、学問を学ぶことが奨励されています。
【国学】もブームの兆しを見せています。
日本の歴史を見ると、海外の文化を称揚する時期と、日本文化を求めるようになる時期と、交替してブームが訪れます。
吉宗以降の蘭学ブームは【田沼時代】終焉と共に収束し、【国学】への熱が高まっていた。
幕末前夜ともいえる流れです。
重三郎もめざとくこれに目をつけ、錚々たる国学者と接触しています。
江戸在住の加藤千蔭、村田春海です。
寛政4年(1792年)には加藤千蔭『ゆきかふひかり』を、京都・大阪・名古屋の版元と共同出版にこぎつけました。罰金刑の翌年に快挙というほかないでしょう。
しかし重三郎にとって、加藤千蔭の出版は山の五合目といったところで頂上ではありません。
著作多数で、国学者の中でも最も名高い、本居宣長こそ大本命でした。
寛政7年(1794年)、重三郎はついに本居宣長と対面を果たします。
既刊の江戸での出版権を得ることと、江戸で新刊が出せれば上出来――と、この願いは叶えられ、蔦屋重三郎は本居宣長の江戸での出版元におさまるのです。
吉原生まれでそこからのしあがり【黄表紙】や【美人画】でヒットを世に送り出してきた蔦屋重三郎。
それがお堅い【国学】の書物も手がけるのですから、なんとも凄まじいビジネスセンスではありませんか。
売れ筋定番なのに、ブルーオーシャンとなった役者絵
罰金刑という痛撃を乗り越えていた蔦屋重三郎は、またもブームを牽引すべく、新しいジャンルへ挑もうとします。
【寛政の改革】は、それまでの売れるセオリーを変えてしまいました。
【美人画】にせよ、鮮やかな着物ではなく、庶民的な姿が魅力とされるようになっていた。
【浮世絵】において【美人画】と並ぶ売れ筋は歌舞伎役者を描く【役者絵】となりますが、この【役者絵】も大変なことになっておりました。
それまでの【役者絵】は、「江戸三座」中村・市村・森田とタイアップした勝川派が独占状態でした。
【大首絵】で一世を風靡した勝川春章の弟子たちが担っていたのです。
しかし春章は既に亡く、春好は中風で右手が麻痺。
春朗という弟子は独自性が強すぎました。なんせ後の葛飾北斎ですから仕方ありません。
春英が一人気を吐いていましたが、「江戸三座」が経営難で休座に追い込まれてしまうと、【役者絵】という売れ筋に大きな穴が開いてしまいます。
空白になった何を売り出すのか?
ここで重三郎に期待を寄せていたのが、歌麿と想像できます。
かつて【美人画】における華々しいシンデレラ・ボーイとして世に躍り出た彼には、それなりに期待があったようです。
しかし、蔦屋重三郎が白羽の矢を立てたのは別人。
蜂須賀家の能役者・斎藤十郎兵衛――彼を「東洲斎写楽」という誰も知らぬ絵師として大々的にデビューさせ、斬新な【役者絵】を売り出そうとしたのです。
そして二度目の奇跡は……起きませんでした。
写楽のプロデュースは失敗した
寛政6年(1794年)5月、東洲斎写楽は華々しいデビュー作を飾りました。
28枚組の【雲母摺】(きらずり)とは異例です。
雲母摺とは雲母を背景に用いるもので、江戸時代のホログラム加工であり、実に高いものでした。
浮世絵は庶民が気軽に買える、蕎麦一杯の値段が特色とされます。
重三郎は賭けに出ました。とびきりの豪華路線にしたのです。
しかし、第一弾の売れ行きがどうにも悪い。
第二弾、第三弾ともなると、紙の質もおさえられ、紙のサイズも小さめの【間判】や【半判】とされました。
リスクを取れなくなった重三郎の苦い顔が思い浮かんでくるようです。
そして第四期を最後に、絵師としての活動は終わりを迎えてしまいます。
デビューして一年も持ちませんでした。
東洲斎写楽はあまりにあっけない終焉からか、正体が謎とされ、あえて消えていったような歴史ミステリとされてきました。
しかし『べらぼう』ではそうしたミステリを採用しないようです。
これについてはもう決着済みといえます。要するに、売上戦略ミスといえる。売り出しに失敗した新人作家が消えた。今もよくある構図が見えてきます。
斬新なはずだ。きっと売れるはずだ……しかし写楽の絵を手にした江戸っ子は首を傾げてしまう。飛ぶように売れ、新時代を築く【役者絵】を手掛けていたのは、歌川豊国でした。
そんな状況は、重三郎にとっても、写楽にとっても、針の筵であったことでしょう。
歌麿はこうした状況を苦々しい顔で眺めていたようで……このころ蔦屋以外の版元から、当てつけのように作品を発表していたのでした。
それでも写楽プロデュースが失敗した寛政7年(1795年)となると、歌麿は久々に蔦屋から作品を出版します。
和解があったのでしょう。
曲亭馬琴と十返舎一九を見出す
大博打に敗れたような蔦屋重三郎。
しかし、その眼力が衰えていたわけではありません。
重三郎はその侠気で、次代を担う文人を見出していました。
一時は蔦屋のもとで手代を務めたこともある曲亭馬琴です。
山東京伝のもとにいたこともあるこの武士出身の文人は、作家としてすでに頭角を見せ始めておりました。
文武を奨励する世相は、頑固で生真面目な彼の性格と一致。
武士道の華々しさと勇猛果敢な武士が躍動する彼の作品は、江戸時代を代表するエンタメとなるのでした。
蔦屋の食客として身を寄せ、雑用や挿絵仕事をこなしていた中に、十返舎一九もおりました。
弥次さん喜多さんの道中記である『膝栗毛』シリーズを大ヒットさせる作家です。
その最期まで、江戸っ子らしく、粋だった蔦重
寛政8年(1796年)5月6日、蔦屋重三郎は病床にいました。
蔦屋の後始末をし、妻との別れを済ませ、こう言います。
「今日の昼、十二時には死ぬだろう」
しかし、予言を過ぎてもまだお迎えが来ません。
苦笑して彼はこうつぶやきました。
「命は終わったってのに、幕引きを告げる拍子木がまだ鳴らねえもんだな……遅ぇよ」
これが彼の最期の言葉でした。そのまま口を開くことはなく、その日の夕刻には帰らぬ人となりました。
享年48。
死因は脚気とされます。
「耕書堂」は営業を続け、蔦屋重三郎は五代目まで数えるものの、初代以上の輝きを取り戻すことはありませんでした。
★
世襲が当然の江戸時代において、一代でのしあがった蔦屋重三郎。
日本人にとって馴染み深い作品を世に送り出すだけでなく、世界的に知られる浮世絵供給の背後にもおりました。
現代日本のエンタメを牽引する「蔦屋書店」屋号の由来となり、2025年には大河ドラマ主役に選ばれています。
民衆が牽引した日本文化を築き上げた一人として、彼の業績はこれからも残されてゆくことでしょう。
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文:小檜山青
※著者の関連noteはこちらから!(→link)
【参考文献】
安藤優一郎『蔦屋重三郎と田沼時代の謎』(→amazon)
松木寛『蔦屋重三郎』(→amazon)
小林忠『浮世絵師列伝』(→amazon)
深光富士男『浮世絵入門』(→amazon)
小林忠/大久保純一『浮世絵鑑賞の基礎知識』(→amazon)
田辺昌子『浮世絵のことば案内』(→amazon)
田中優子『江戸はネットワーク』(→amazon)
他