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【蔦屋重三郎】
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幕府、出版業を締め付ける
松平定信の時代、幕府は蔦屋重三郎たちと仲良くしている文人サロンの連中にも目を光らせ始めました。
【黄表紙】や【狂歌】に【狂詩(パロディ漢詩)】を手がけ、おもしろおかしく武士の世を笑い飛ばす――そんな連中の中に、武士出身の文人がいては、示しがつかないにもほどがある。
実際問題、このころの武士は副業をせねば食うに困る、暗い時代を迎えていました。
彼らの俸禄は基本的にあがりません。
往年の時代劇では仕官先を失った浪人が、傘張りのような内職をしていますが、実は仕官先のある武士ですらこなしていました。
例えば鎌倉には「鎌倉彫(かまくらぼり)」という特色ある美しい漆器があります。
江戸時代にあの漆器を手掛けていたのは専業の職人だけでなく、食べていけない旗本御家人も含まれていたのです。
日本の特産品は、実は武士の副業だったものが多いんですね。
そうした内職に手を染めるならまだいい。
しかし、ボヤキだの武士としての教養を【黄表紙】なんぞに反映させてベストセラーを生み出すライフハックなぞ、武士の堕落でしかない――幕府としては当然とも言える結論を出します。
かくして、重三郎と近い武士出身の文人たちは、寛政の改革によって大打撃を受けました。
もはや武士の作家は使えない――そんな状況で蔦屋重三郎が押し出したのは、粋な町人出身の文人である山東京伝でした。
弟も、夭折した妹も文才がある、華麗なる一族の出と言える山東京伝。
彼のセンスと才能は際立っていましたが、メンタリティはそこまで頑健とはいえません。
幕府から処罰を受けると士気が低下してしまいます。
食うに困っている武士とは異なり、山東京伝は商売人としても稼ぎはあり、どうしても書かなければならないわけではない。
となると【黄表紙】の次を見出す必要がありました。
喜多川歌麿をプロデュースする
蔦屋重三郎は、江戸の文人ネットワークの中で浮世絵師とも交流を重ねてきました。
吉原の遊女を美麗に描くにせよ、【狂歌本】に挿絵を入れるにせよ、彼らの協力なしでは商売が回りません。
北尾重政、勝川春章、礒田湖龍斎など、名のある絵師とは顔見知りでした。
平賀源内が多色刷り版画技法を確立して以来、【浮世絵】の売れ筋も確たるものとなっております。
【肉筆画】とは異なり印刷できるだけに単価は安く、「蕎麦一杯の値段」で買えることが人気の一因とされています。
しかし質素倹約の流れはどうしたって受けます。
かつて重三郎が企画し、売り出してきた【浮世絵】は豪華なものでした。
天女のように美しい吉原遊女を描く作品ともなれば、高級感はマスト。
遊女以外の女性がモデルであるにせよ、現実離れしているほどスラリとした美女を描いてこそ【美人画】です。
モデル体型のスレンダー美女が豪華な着物を着こなし、名所の前にたたずむ作品が人気でした。
呉服屋ともタイアップしており、ファッションカタログとしての役目も果たしていたのですが、こんな豪華路線を幕府が許すはずがありません。
庶民的な売れ筋を探ることが重三郎の直面した課題でした。
誰もが見たことのない、浮世絵を売り出す――プロデュース力が試される局面。
それまでの彼は、培ってきた既存の文人ネットワークを踏み台にしてのし上がってきたものでした。
教養は不足していても、胆力があって豪快。そんなコミュニケーション力の高さを活かしてのことでしたが、今度は、一から流行を生み出す方向へ進まねばなりません。
ここで、重三郎とタッグを組んだことのある西村屋与八の姿勢を見てみましょう。
西村まさ彦さん扮する彼は、気難しそうな顔をしております。
「版元が刊行するからこそ、絵師、作者、画工は世に名を売り出すことができるのだ。
連中に頭を下げてどうする。
頭を下げて頼み込むことなぞない」
あくまで自分たち版元こそ上位だという考え方ですね。
対する重三郎はどうか?
商売が軌道に乗ったころから、侠気を発揮するようになっていた重三郎。
目をつけたクリエイターの面倒を見て、励まし、大体的に売り出すプロデュースを手掛けており、そこで花開かせた大物が喜多川歌麿でした。
なにしろ名乗りの「喜多川」とは重三郎が養子に入った先から取られています。
浮世絵師は師匠の名で売り出すことが多いのに、異例のこと。
それまでも【狂歌本】等で挿絵は手掛けていたとはいえ、大々的な売り出し前の根回しは相当のものでした。
重三郎は持ち前の人脈を生かし、文人たちに期待の新人がデビューすると触れ回っていたのです。
まだ若い、実力未知数の絵師としては、それも異例のこと。
『べらぼう』では、まだ幼い唐丸に、重三郎が「一人前の絵師にしてやる」と語りかける場面があります。
重三郎と歌麿は一回り歳が違います。
あの少年が歌麿だとすると、相当長いスパンで目をかける設定になることでしょう。
横浜流星さんと染谷将太さんがどう演じるか。大きな見どころとなりますね。
誰も見たことのない、歌麿の美人画
寛政2年から3年(1790-91年)にかけて、喜多川歌麿の【美人画】が世に出ました。
手に取った、江戸っ子たちは、その絵に愕然とします。
そこには、誰もが見たことのない姿があったのです!
それまでの描かれた美女は、どこか冷たく、ツンとしていて理想化された姿でした。
様式美の世界であり、どの美女も似たような無表情を見せていたもの。
長い頭身に、美麗な衣装を身につけ、名所の前で佇む彼女たちは美しくとも、現実離れしていました。
しかし歌麿の描く美人は違った。
個性があり、表情があります。迫るような【大首絵】で、見ているうちにドギマギしてくるようなぬくもりがありました。
英語圏には”girl next door”という表現があります。「お隣に住む女性」という意味です。
高嶺の花ではなく、街行く女性ならではの親しみやすい魅力があることを指し、歌麿の絵はまさしく江戸の「ガール・ネクスト・ドア」でした。
斬新かつ、この作品にはいくつもの工夫と仕掛けがあります。
まず、表情のある【大首絵】。
歌舞伎役者を描く【役者絵】において、勝川春章が取り入れていた技術を応用したといえます。
【大首絵】のデメリットとしては、着物の模様と背景を入れにくいことがあります。
しかし、これをかえって活かしているといえます。高級感あふれる着物の柄は贅沢とみなされ、幕府の取り締まりにあいかねません。そのリスクを下げることができます。
アップになったぶん、髪の生え際やうなじには細やかな彫りの技術が求められます。
それに応じるだけの彫師も、この頃の江戸にはおりました。
いわば時代の風に乗った作品が、喜多川歌麿の絵であったのです。こうした工夫を歌麿一人が仕掛けたわけではなく、背後にはいろいろと知恵を絞る重三郎の姿が見え隠れします。
幕府、高まる江戸のアイドルブームを取り締まる
歌麿の絵は【地女】を描いたことも特徴としてあります。
【地女】とは、【遊女】をはじめとするプロに対しての、一般人女性という意味です。
江戸幕府創設期から江戸では男女比が歪んでおり、女性は強気でいられたものでした。
気に入らなければ夫を追い出す。
鎌倉の東慶寺に駆け込んで離縁する。
口答えするのも当たり前。
江戸っ子ならば男も女も気が強く、せっかちで、言葉遣いも荒々しい。
それが江戸の【地女】だったのです。
落語の世界で「カカアがよぉ」と夫がぼやいている対象がその典型例。
そんな女房の尻に敷かれたくないからこそ、江戸の男は吉原に向かい、“天女”にたとえられる遊女に熱をあげたものでした。
重三郎もそんな天上の美女をプロデュースすることが『べらぼう』前半となるはずです。
しかし歌麿の【美人画】は、【地女】の魅力を再発見し、会いに行けるアイドルとして見出すものでもありました。
寛政5年(1793年)頃に発表された歌麿の『寛政三美人』は、江戸を震撼させます。
歌麿は実在する水茶屋の看板娘を描いたのです。
絵を手にした江戸っ子たちは大興奮。
水茶屋に押しかけ、モデルとなった娘を観察し、つれない態度をとると暴れる――そんな迷惑行為までするようになりました。
こうなると幕府も「過激な追っかけは禁止、その原因となる実在するモデルの【美人画】も禁止!」としてしまいます。
ここから先は、まさにイタチごっこの世界へ。
歌麿と重三郎コンビはすり抜け工作を始めます。それとなくモデルがわかるモチーフを絵の中に描き込み、その謎解きをすれば誰を描いたかわかるようにしたのです。
これを【判じ絵】と呼びます。
やがて幕府に勘付かれ禁止にされてしまいますが、【判じ絵】は浮世絵定番技法となり、この先も続けられました。
幕末ともなると、薩摩藩や長州藩とわかるガキ大将どもが、大暴れする絵が江戸でこっそり流通していたほど。
重三郎と歌麿の仲は引き離せないようで、そうはなりません。
なんせ歌麿の絵は飛ぶように売れます。
西村屋与八は八頭身美女を描く鳥居清長や鳥文斎栄之を売り出すものの、歌麿の前ではどうしても霞んでしまう。
こうなると、どの版元も「どうすれば歌麿に描かせられるのか」と熱い眼差しを向けるようになってゆく。
歌麿もやがて、蔦屋以外からの仕事も引き受けるようになるのです。
蔦屋重三郎、山東京伝ともども罰せられる
一方の蔦屋重三郎も【浮世絵】以外に目を向けていました。
なんせ重三郎は【寛政の改革】をおちょくる【黄表紙】をさんざん出しており、幕府からは厳しい目を向けられています。
寛政3年(1791年)に出版予定だった山東京伝の【洒落本】が、出版取締令違反とされました。
山東京伝は「手鎖五十日」(手に鎖をつける刑罰)を喰らい、蔦屋重三郎は「重過料」(罰金刑)。
繊細な京伝にとっては、父・伝左衛門まで息子の管理不行き届きとして「急度叱り置き」とされたのは、衝撃的だったことでしょう。
後に曲亭馬琴は、欲に目が眩んだ蔦屋側が京伝をそそのかし、危険を承知で出そうとしたのだと書いております。
馬琴の筆がどこまで真相を伝えているのかは不明とはいえ、何か慢心はあったのかもしれません。
幕府にせよノリに乗った蔦屋と京伝を罰することは見せしめの効果が大きい。
なお、この曲亭馬琴こそ、ポスト【黄表紙】時代の売れっ子作家となります。
遊郭での恋の鞘当てを描いた【黄表紙】に代わり、【合巻】と呼ばれる挿絵入りエンタメ小説が人気となるのですが、この【合巻】を得意とする作家が馬琴であり、その代表作が『南総里見八犬伝』でした。
馬琴も、若い頃は蔦屋の手代を務めたことがあります。
妻と不仲で知られる馬琴ですが、縁談をまとめたのも、重三郎でした。
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