大河ドラマ『べらぼう』で、最もサプライズだった配役は、やはり鉄拳氏でしょう。
普段は覆面をかぶり、絶妙に味のある絵を描くのが売りの鉄拳氏が、素顔になって江戸時代に登場――彼が演じるのは礒田湖龍斎(いそだ こりゅうさい)です。
これまでは知る人ぞ知る絵師であり、まさか脚光を浴びることになるとは思いも寄らなかったというのが本音。
では、礒田湖龍斎とはどんな絵師だったのか?
その生涯を振り返ってみましょう。
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鈴木春信の美人画 江戸っ子を魅了する
大河ドラマ『べらぼう』の舞台は、江戸の文化が花開いてゆく時代。
いざ絵画を学ぼうとなれば、唐(中国)や上方の画風を模倣したり、新興都市である江戸の風俗を描き出すところから始まりました。
そこに革命的な絵師が登場します。
鈴木春信(1725?−1790)です。
浮世絵の大家として知られる春信は、その画風だけに留まらず、画期的な新技術も生み出します。正確には彼の協力者が、【多色刷り】の【錦絵】を開発したのです。
その協力者、いったい何者?と思われるかもしれませんが、名前を聞けばご理解いただけるはず。
平賀源内です。
裕福な商家の出である春信の実家は、大家として店子に住居を提供しており、その住人の一人が平賀源内でした。
大河ドラマ『べらぼう』では作家としての能力が注目されましたが、この源内、史実では文系も理系も関係なく多方面で才能を発揮。
彼は大家である鈴木春信のためカラフルな浮世絵(錦絵)を生み出しました。
文字にすると簡単なことですが、その効果は絶大。
なんせ、それまでの【浮世絵】と言えば、限られた色数で刷られた地味な作品か、色数制限がない代わりに枚数が限定されてしまう【肉筆画】か、とにかく活躍の場が限定されていました。
しかし【錦絵】により、可能性は一気に拡大。
春信の絵にはどんどん色が増え、作品は進化していったのです。
鈴木春信は、裕福な商家の出とされています。
その手助けをする平賀源内は武士。
武士と町人の垣根も薄くなった時代ならではの、大きな一歩でした。
鈴木春信フォロワー絵師の一人として
江戸中期は、武士も創意工夫を凝らし、食っていくための副業を模索せねばならない時代でした。
なんせ武士は基本的に昇給がありません。
江戸時代は世襲ですので、親から受け継ぐ石高だけで食ってゆかねばならなかった。
これがどれだけキツいことか。
物価が上がっていくのに給料は上がらない。かといって、ホイホイと転職するわけにもいかない。
そこで平賀源内のようにアイデア溢れる武士は、才能を金にしようと考えました。
礒田湖龍斎もまた、江戸小川町土屋家の浪人でした。
本名は礒田正勝、庄兵衛と呼ばれていました。
磯田は己の画才を自覚していたのか、「湖龍春広」または「春広」名義で【美人画】を描き始め、ほどなくして「湖龍斎」となりました。
「湖龍」とは霞ヶ浦を指し、土屋家がおさめていた土浦藩ゆかりの名であるとされます。
はじめは「春」を名乗っていたように、その画風も当初は鈴木春信とさして違いはありませんでした。売れ筋の定番であり、周囲の需要もあったのでしょう。
それが明和7年(1790年)に春信が没する前後から、磯田は独自路線を模索するようになります。
湖龍斎が春信風のみの作品を手がけていたら、ただのフォロワーとして歴史の中に埋没していったことでしょう。
柱絵:細長レイアウトへの開眼
浮世絵とは、江戸の人々の日常生活に密着したものです。
貴族や大名にはない発想の作品も出てきます。
その一つが【柱絵】――文字通り、柱に貼り付けて楽しむものです。
傷を隠すような使い方や、【屏風絵】とは一味違う縦長の絵を楽しむこともできる。
磯田湖龍斎はこの【柱絵】に美人を描くことを見出しました。
しかし、レイアウトを生かすには、春信風からの脱却が求められます。
華奢で控えめな美少女ではなく、のびやかな肢体を持つ、成熟した美女こそ細長いレイアウトでは映える――礒田湖龍斎は、そう見出しました。
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