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【光格天皇】
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女帝の配ったリンゴが歴史を動かした
後桜町上皇は、まず手元にあったリンゴ3万個を民衆に配るよう命じ、他の貴族達もそれに倣って握り飯やお茶を配り始めたそうです。
人が集まれば商人も集まり、どこからか菓子や酒を売る露天商もやってきたとか。商魂たくましいというかなんというか……。
これを見た光格天皇は幼いながらに知恵を絞り、勇気を出して幕府に直接「民を助けてください」と要請します。
しかし、皇室や貴族が民衆に何かをすること、そして幕府に指示を出すことは
【禁中並公家諸法度】
という法律に違反する行動でもあります。
もしお咎めを受ければ、光格天皇も後桜町上皇も、周辺の貴族もただでは済みません。
しかしこのときは幕府のほうが後ろ暗かったからか、
「いやあすっかり対応が遅れてしまって申し訳ございませんすぐに米をお送り致しますんでハハハハハハ」(※イメージ)
とスルーしてくれました。
幕府としては、例外もこれ一回きりのつもりだったのでしょう。
実際、その後の朝廷と幕府の関係はしばらく平穏なものでした。
しかし……。
尊号一件
寛政元年(1789年)のことです。
光格天皇が自身の父である閑院宮典仁親王(かんいんのみやすけひとしんのう)に「太上天皇」の尊号を贈りたいと幕府に伝えたことから、にわかに事態が怪しくなっていきます。
禁中並公家諸法度の定めだと、親王は大臣より地位が低い。
そこで父親に尊号を贈りたいと願ったのですが、これに待ったをかけたのが【寛政の改革】でお馴染みの松平定信です。
定信は「尊号を贈ることは私的な行為である」として拒否しました。
もしも時代が徳川家光や徳川吉宗の頃でしたら、朝廷側もすぐに引き下がざるを得なかったかもしれません。
しかし、御所千度参りなどを経験していたからなのか。
光格天皇も簡単には折れず、朝廷幕府の関係は次第に冷え込み、完全に引き下がるまで実に六年もの歳月を費やしています。
後の孝明天皇へ
尊号一件では、結果的に折れた光格天皇。
しかし、禁中並公家諸法度に反した行動を含めて、皇室にとっては無駄ではなかったと考えられます。
江戸時代も安定してから、初めて天皇が幕府に対して政治的見解を告げたからです。
それだけではありません。他にも光格天皇は、ずっと途絶えていた祭や儀式を復活させたり、当時こじれていたロシア帝国との交渉について報告を求めたり、積極的に政治へ関わっていました。
そうした動きが、後の尊皇運動の種火となったとも考えられるでしょう。
なんせ光格天皇の後は、仁孝天皇を挟んで孝明天皇です。
幕末の中心にいて朝廷の発言権を一気に強めた御方。
孝明天皇自身は、最終的に幕府との協力体制を願い、会津藩を頼りにしていたので【倒幕一辺倒】ではありませんが、発言力が増していたのは間違いなく。
結果、倒幕へと繋がったのであれば、やはり光格天皇のスタンスは朝廷にとっては効果的だったと考えられましょう。
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長月 七紀・記
【参考】
国史大辞典
高森明勅『歴代天皇事典』(→amazon)
歴史読本編集部『歴代天皇125代総覧 (新人物文庫)』(→amazon)
光格天皇/wikipedia