250年を超える江戸幕府。
これほどの長期政権を続けられた秘訣は何なのか。
要因は数多ありそうですが、特に大きいのが初代将軍の徳川家康が“男子を多くもうけたこと“ではないでしょうか。
その数なんと11人もいて、特に、下の息子三人(義直・頼宣・頼房)が立てた家は、その後の江戸幕府を強力に支えていきます。
今回はそのうち、11男だった徳川頼房に注目。
頼房は、寛文元年(1661年)7月29日が命日なのですが、彼が興した水戸藩は御三家の中でも特殊な立ち位置にあり、幕末でも独特かつ強烈な存在感を放ちました。
一体なぜそんなことになったのか?
徳川頼房の生涯を振り返りながら、同時に水戸藩の成り立ちも考察してみましょう。

徳川頼房/wikipediaより引用
徳川頼房は家康の十一男
前述の通り、徳川頼房は家康の末男(11男)です。
生まれたのは慶長8年(1603年)。
関ヶ原の戦いが終わった後、大坂の陣までまだしばらく年数がある時期でした。
兄・徳川秀忠の息子である徳川家光が頼房の一歳下であり、これは後に水戸家の立ち位置を決める要因にもなります。
頼房は、幼い頃から家康の側室・お勝の方の手元で養育されました。
「この世で一番美味いものも、一番不味いものも塩」のエピソードで有名な女性で、家康の側室の中でも”賢女”として知られている人です。
なぜ家康が、お勝の方に頼房を預けたのか、確たる理由はわかりません。

徳川家康/wikipediaより引用
彼女が実子・市姫を亡くした直後だったともされていますので、別の生きがいを与えようとしたのでしょうか。
あるいはお勝の方は”質素倹約”をモットーとする人でしたので、家康がそういった思想を息子に備えさせたかったのかもしれません。
頼房の生まれた年代や社会情勢からみても、他家との戦や競争を経験する機会はないでしょうから、身内の散財で幕府が傾いた……なんて事態だけは避けたいところ。
当時の家康はすでに60歳で、頼房の元服まで生きていられるかも不確実ですので、それらを総合的に考え、まだ若くしっかりしたお勝の方に託した、というのは割と筋の通る話だと思います。
ちなみに、
九男・徳川義直
十男・徳川頼宣
十一男・徳川頼房
の三人は共に慶長十六年(1611年)で元服を済ませ、このとき家康は、もちろん生きています。
※徳川家康の命日はそれから約5年後の元和二年(1616年)4月17日
全国から集まった家臣団
家康とお勝の方の堅実な方針が功を奏したのか。
徳川頼房は大きなトラブルもなく成長し、三歳のときには常陸・下妻で十万石の領主になります。
幼主あるある「ワガママで国が荒れました」といったような話は特にありません。
実務については、むろん家臣が行っていましたので、当然といえば当然かもしれませんが、お勝の方による教育の成果も、いくらかは含まれていたことでしょう。
水戸藩の始まりは、慶長十四年(1609年)12月に頼房が水戸二十五万石を与えられてからとされています。
この時期の頼房はまだまだ少年。
元和五年(1619年)10月に国入りするまでは、家康の命を受けた家臣たちが実際の政務を取り仕切っていました。
頼房の家臣は、大きく分けて4つの出自を持ちます。
1.早世した異母兄・武田信吉の旧臣
2.関ヶ原以前に水戸周辺を収めていた佐竹氏の旧臣
3.家康の直臣から水戸家に異動した者
4.改易された他の大名家から移ってきた者(例:山野辺義忠)
出身地から見ると、東北から東海まで東日本のほぼ全域の人々が水戸家にいたということになりますね。
生活習慣や物事の判断基準など、かなり異なっていたことは想像に難くなく、当初は、日常の些細な面で家臣たちも苦労していたかもしれません。
水戸へ入ったときの頼房は、16歳になっていますから、当時の基準としては名実ともに成人。
その間にあたる慶長十八年(1613年)3月には、家康の前で徳川義直・頼宣と共に能を披露したり、慶長十九年(1614年)大坂冬の陣では駿府城の留守を任されたり、少しずつ露出が増えていったようです。

徳川義直(左)と徳川頼宣/wikipediaより引用
家康としてはやはり、晩年に生まれた下の息子たちのことが最後まで気にかかっていたらしく、秀忠へ
「義直・頼宣・頼房を側に置いて目をかけるように」
と伝えていたそうです。
まだ海の物とも山の物ともつかぬ幼い息子たちに対しては、やはり家康ほどの人物でも親心が勝るのでしょう。
苦労と忍耐で作り上げた幕府を、身内のトラブルで早々に潰すわけにはいかない……と言った考えもあったかもしれません。
甥っ子・家光と仲良しです
徳川頼房が初めて元和五年(1619年)10月に水戸へ入ってから、以降はかなりドタバタした日々となります。
2ヶ月後には江戸へ戻り、次に水戸へ行ったのは寛永二年(1625年)。
そこから寛永七年(1630年)まで、江戸と水戸をほぼ毎年往復しながら、水戸城や城下町の設備や法の整備を進めているのです。
他の御三家(尾張や紀伊)と比べればかなり近いですが、相当忙しい生活ですよね。
“毎年”ではなく”ほぼ毎年”となっているのは、寛永三年(1626年)に徳川家光のお供として上洛しているためです。

徳川家光/wikipediaより引用
家光とは相性が良かったようで、寛永十年(1630年)にお勝の方(この頃は落飾して英勝院)を通して、
「そなたには何事も相談したいし、兄弟同然に思っている」
と伝えています。
これには家光の家庭環境も影響していたと考えられます。
家光は同母弟・忠長と仲が悪く、異母弟・保科正之は信用できるものの出自故に頼りきれない、という状況でした。

徳川忠長/wikipediaより引用
同じく年の近い叔父としては義直や頼宣もいますが、彼らはかつて謀反の疑いをかけられたことがあったため、信じきれなかったのでしょう。
そのため、一番歳の近い血縁者である頼房へ「信頼している」と明言したのではないかと思われます。
これを受けてか、以降の頼房と代々の水戸藩主は江戸常住(定府)となりました。
水戸徳川家の当主に「副将軍」というあだ名がついたのも、ここから来ているようです。
奨学の気風から水戸学へ
水戸藩の領域はもともと佐竹氏の領地だった場所です。

佐竹義宣/wikipediaより引用
関ヶ原後に同氏が改易され、新しく徳川頼房が入ってきたため、当初は藩政にもなかなか難儀したようです。
一方で頼房は、国元で儒学や神道などの学問にも励みました。
二代藩主となった光圀も学問を好んだため、水戸藩は奨学の気風が定着。やがて”水戸学”という学問体系が作られ、幕末の尊皇攘夷に繋がっていきます。
頼房の時代に水戸家であまり騒動がなかったのは、彼の性格のおかげかもしれません。
実は御三家が「御三家」と呼ばれるようになり、立場が固まったのはもう少し後の時代なのです。
家康が亡くなってから家光の時代くらいまでは、尾張家の義直と紀伊家の義宣の間で「どちらが格上か」といったことで静かに火花を散らしており、年少の頼房は一歩引いたような立場にいました。
また、家光の時代初期は、前述の徳川忠長が”将軍に最も近い血縁者”だったこともあり、頼房自ら
「御三家というのは宗家と尾張家、そして紀伊家のことを言うのだ」
と主張していたとか。
揉める前に自分の立場を少し下げておくことによって、争いを避けようとしたのかもしれませんね。
それから少し時間が経過して、尾張家と紀伊家がそれぞれの息子に代替わりすると、少し席次が変わり、
1.忠長
2.頼房
3.光友(尾張家二代)・光貞(紀伊家二代)
となりました。
この席次が以降受け継がれていきましたので、水戸家は”官位や領地では尾張と紀伊の二家に及ばずとも、名誉の上では同等以上といえる状態になった”といっても過言ではありませんでした。
十一男十五女の子だくさん
大きなトラブルもなく、身を処してきた徳川頼房。
おそらく、嗣子である徳川光圀の言動には手を焼いたものと思われます。

徳川光圀/wikipediaより引用
派手な親子喧嘩に発展するようなことにはならず、頼房が亡くなる間際には、光圀自ら看病したともされています。
記録に残らない日常においては、一般には知られない温かい会話もあったかもしれませんね。
そして頼房は寛文元年(1661年)7月29日に水戸城で亡くなり、「威公」という諡号を与えられています。
儒教に基づいた中国風の諡号も、水戸家の伝統として受け継がれていきました。
ちなみに光圀は「義公」、幕末の話題でたびたび登場する徳川斉昭は「烈公」です。
なんとなく「なぜその字をつけたのか」がうかがえますね。
頼房が後世に大きな影響が二つ
頼房が後世に大きな影響を残した点が二つあります。
一つは、前述の学問奨励→水戸学→尊皇攘夷の流れ。
そしてもう一つが、男系子孫を数多く残したことです。
頼房は父・家康を超える子福者で、なんと十一男十五女にめぐまれました。
これによって水戸家の血が守られたのはもちろん、他家へ養子に行ったり嫁いでいった人もいましたので、頼房の子孫は文字通り末広がりに栄えていったのです。
2025年時点での徳川宗家のご当主・徳川恒孝氏も頼房の子孫です。
ちなみに女系の子孫を含めると、幕末の名君として有名な島津斉彬や鍋島直正、元総理大臣の細川護熙氏などがいます。
錚々たる顔ぶれですね。
家はもちろんのこと、血を残すことも武家の大きな目的の一つですから、頼房は立派にそれを成し遂げたといえます。
家康やお勝の方も誇らしく思っていたのではないでしょうか。
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【参考】
国史大辞典
藤井讓治『徳川家康 (人物叢書)』(→amazon)
新人物往来社『徳川将軍家・松平一族のすべて』(→amazon)





