寛永14年(1637年)1月22日は阿茶局(雲光院)の命日です。
2023年の大河『どうする家康』では松本若菜さんが演じ、凛々しい姿が非常に人気になりましたので、覚えていらっしゃる方も多いでしょうか。
劇中では、家康の相談事に応じたり、あるいは茶々とバチバチ火花を散らしたり。
彼女はいったい側室なのか、なんなのか?
一見、立場がわかりにくいのも無理はなく、史実では家康の側室であるだけでなく、政権運営にも関与し、大坂の陣では交渉を担うほど頭脳明晰だった女性と目されています。
さらには家康の死後も何かと重宝され……いったい彼女は何者だったのか?
阿茶局の生涯に注目してみましょう。
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阿茶局(雲光院/wikipediaより引用
※家康六男・松平忠輝の生母である茶阿局(ちゃあのつぼね)とは別人になりますのでご注意を
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父は武田家臣 前夫は今川家臣
阿茶局は、弘治元年(1555年)生まれ。
家康が天文11年(1543年)生まれですので、ちょうど干支で一回りの年齢差ですね。
この時代ではままある年齢差であり、実名は「須和」といいました。
当時の女性で実名が判明しているのはなかなか珍しいこと。彼女が甲斐武田の家臣・飯田直政の娘であり、身元がしっかりしていたことによります。
最初は、今川家の家臣・神尾忠重(久宗)に嫁ぎ、二人の男子に恵まれました。
しかし、夫とは天正五年(1577年)に死別。
その後の経緯は詳細不明ながら、天正七年(1579年)に家康に召し出されて仕えるようになり、寵愛を受けて天正十二年(1584年)頃に妊娠したようです。
このときは小牧・長久手の戦いの真っ最中で、残念ながらこの子は生まれる前に亡くなってしまいます。
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小牧長久手合戦図屏風/wikipediaより引用
以降、阿茶局は身ごもった記録がないため、子供ができにくい体になってしまったのかもしれません……。
子供ができないとなれば、実家に戻されてもおかしくないのが当時の結婚ですが、家康は阿茶局を手放しませんでした。
武田家が既に滅んでいて、戻るところがなかったからとも考えられますが、おそらく彼女の才覚を愛したからではないでしょうか。
人を育て、諭す才能です。
母子で秀忠をサポート
この時点での家康には正室がいません。
築山殿は信長に疑われて処分されてしまいましたし、秀吉から人質として押し付けられた朝日姫はすぐに帰ってしまっています。
しかし、家康の手元にはまだ幼い徳川秀忠や、松平忠吉がいました。
彼らの実母である西郷局は天正17年(1589年)に亡くなっており、家康の長男だった信康はそれ以前に自刃。
次男の秀康は秀吉の養子となっているため、徳川秀忠が後継者になる可能性はかなり高い状態です。
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徳川秀忠/Wikipediaより引用
となれば、心身ともに次の当主となるにふさわしく育ててくれる女性も必要となり、家康はその重大な役目を阿茶局に任せました。
彼女と前夫の間に生まれた息子の神尾守世も秀忠に仕え、家康としても一安心といったところだったでしょう。
以降、阿茶局は徳川家の”奥”を取り仕切る役目を果たします。
他の側室たちに比べて、現代での知名度が低めなのは、家康との間に子供がなかったことと、実家の影が薄いからかもしれません。
しかし阿茶局の才覚は、政治面でも活かされます。
大坂冬の陣の和睦を取りまとめる際、60歳を迎えていた阿茶局が使者に立ったのです。
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