1589年7月1日(天正17年5月19日)は於愛の方こと西郷局の命日です。
大河ドラマ『どうする家康』で広瀬アリスさんが演じたことで注目されたこの女性、二代将軍・徳川秀忠の母としても知られますね。
家康の長男である松平信康は築山殿(瀬名)が産み、次男の結城秀康は於万の方(長勝院・ドラマでは松井玲奈さん)が母。
そして、次に生まれたのが秀忠というわけで、なぜ家康は西郷局を側室に選んだのか――その思考回路を考察すると、為政者としてなかなか興味深いことが浮かんできます。
西郷局の生涯を振り返りながら、家康の後継者事情を振り返ってみましょう。

西郷局(於愛の方)/wikipediaより引用
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西郷局とは
西郷局は、彼女の生まれた家からそう呼ばれています。
徳川の前には今川に仕えていた三河西郷氏という、あまり目立たぬ一族の出とされているのです。
彼女はもともと、同族の西郷義勝に嫁ぎ、一男一女を産んでいました。
しかし、元亀2年(1571年)の徳川vs武田戦で夫が討ち死にしてしまい、幼い子を抱えた西郷局が母のもとへ戻っていたところ、家康の目に留まりました。
そして彼女は西郷局として家康の側室となり二人の男児を産みました。
天正7年(1579年)4月に出産した秀忠と、天正8年(1580年)に生まれた忠吉です。

徳川秀忠/wikipediaより引用
長篠の戦いが天正3年(1575年)5月のことですので、その後の数年で立て続けに産んだわけですね。
しかし、残念ながら長寿とは言えず、天正17年(1589年)に駿府で没しました。
没年は30ほどとされていて、逆算すると1560年前後生まれと推察。
性格温和で美しい人であったと伝えられています。
家康は天文11年(1543年)生まれで、築山殿(瀬名)も同年代と考えられているのですが……築山殿は、長男の松平信康事件に関連して天正7年(1579年)8月に亡くなっています。

松平信康(左)と築山殿/wikipediaより引用1200
つまり築山殿が亡くなる直前に秀忠は生まれているんですね。
こうした事情を踏まえながら、西郷局という女性と家康や徳川家との関係を少し深掘りしてみましょう。
戦国の「ちょうどいい女」
佳人薄命と言いたくなるような西郷局は、家康に仕えていた夫が対武田戦で討死。
いわば主君のために命を落とした家臣の妻を、その主君が側室にするというのは倫理的にいかかがなものか? とも考えられますが、当時の日本での倫理観では問われなかったとなるのでしょう。
西郷局とは、無難な性格で、かつ家柄的にも「戦国のちょうどいい女」だと思えます。
現代人にとっての「ちょうどいい女」とは、そこまで美形でもなく、愛想がよくて、めんどくさくなくて、ちょっとトロいくらいの女性という意味でしょうか。
戦国時代の場合ですと、そうした個人のスペックよりも“家柄”が重要となってきます。
「強すぎる女」から得られる教訓とは?
大河ドラマ『どうする家康』ではとても知性的には見えなかった徳川家康ですが、実際はそんなことはありません。
今川家にいて太原雪斎のもとで学び、書物も大量に愛読していた。
その中にある歴史書からは、家康が参考としたであろう教訓が見てとれます。
まずは『史記』です。
司馬遷がまとめた中国初の正史であり、当時は日本でも必須の書物。
そこには恐ろしい女性が出てきます。漢高祖劉邦の妻・呂雉(りょち)です。
彼女は、夫の死後にライバルだった愛人たちを惨殺した、おどろおどろしい逸話で知られますが、重要な点はそこだけでもありません。
もうひとつ注目の書物は『鎌倉殿の13人』の最終回で家康が読んでいた『吾妻鏡』です。
こちらには北条政子という列女が登場。

絵・小久ヒロ
北条氏擁護目線の『吾妻鏡』と、先の『史記』を組み合わせて読むと、ある教訓が見えてきます。
呂雉と北条政子――この二人は、夫の死後に政治権力を握ったという共通点があるのです。
そもそも劉邦も源頼朝も、彼女らの実家の支えなくして、立ち上がることはできませんでした。
呂雉は土地の有力者の娘で、その父母は「良い婿を迎えたい」と考えていた。
そんなとき劉邦というゴロツキ青年を知り、父・呂公が只者ではないと見抜くと、妻の反対を無視して、こう持ちかけたのです。
「あなたは只者ではありませんなぁ~。うちの娘を預けますんで、下女にでも何でも、お好きにしてください!」
こうして妻にすると、青年・劉邦は後に妻の実家のサポートを得て、立ち上がったのでした。
一方、北条政子は、父・北条時政の反対を押し切り、伊豆の流人である源頼朝と結ばれ、後に頼朝が挙兵した際、彼の隣には父である時政や、弟の北条義時たちがいました。
なるほど妻の実家は頼りになるんだなぁ……と言い切れるほど事は単純ではありません。
女系が強い時代のリスク
外戚(妻の一族)は危険である――。
『三国志』ファンにとっては御馴染みのシチュエーションですが、呂雉にせよ、北条政子にせよ、彼女らの出身一族は台頭し、夫の一族を喰らい尽くそうとしました。
実際、源氏は不運を重ね、北条一族の台頭を防ぎようがなかった。
しかし、漢の皇族である劉氏は巻き返します。
と同時に究極の外戚対策を思い付きます。それがこの二択です。
・子を産んだら、その母は殺す
・実力のない一族から妻を迎える
あまりに苛烈な選択であるため、前者を選ぶ権力者は少数派です。
例えば、前漢武帝と鉤弋夫人(こうよくふじん)、北魏の「子貴母死制」が該当します。
後者の例としては『三国志』でお馴染みの曹操に注目しましょう。
彼の正夫人である卞氏は歌妓出身です。曹操がキャバクラ好きということではなく、彼女はむしろ質素を好み、目立たないようにし、周囲を立てる賢い女性でした。
一族が調子に乗るようなこともありません。目立てば危険だと理解していたのでしょう。
前述の通り、読書を好む知性派の徳川家康としては、そうした歴史からの教訓を読み取っていたことは十分に考えられる。
数多いる家康の妻のうち、実家の後ろ盾があるのは、本人が選んでいない築山殿(瀬名)と、朝日姫のみ。
家康が既婚者好みで知られるのに対し、秀吉は貴族や有力武家の姫を好むとされます。
これは本人たちの単なるスペック好みではなく、権力への意識もあるのでしょう。
家康としては、外戚の台頭リスクを抑えたい。
秀吉としては、女系の取り込みによって権力を盤石のものとしたい。

豊臣秀吉/wikipediaより引用
中世までの日本は、男系と女系の両方を重視する【双系制】が強いとされます。
その認識が江戸時代以降に薄れたため、家康にせよ秀吉にせよ「好みの女をスペックで選んだ」と思われるようになったのではないでしょうか。
つまり両者共に「単なる女好きではなかった」と考えられるのです。
話を西郷局に戻します。
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