大河ドラマ『どうする家康』で小栗旬さんが演じて話題になった南光坊天海――。
寛永20年(1643年)10月2日はその命日です。
劇中における小栗さんの怪しさ満点の演技はとても印象的でしたが、それもそのはず史実の天界も謎多き人物でして。
その最たる礼が「南光坊天海の正体は明智光秀ではないか?」という伝説でしょう。
いったい南光坊天海とはどんな人物だったのか?
なぜそんな伝説が現代にまで伝わっているのか?
謎多き生涯を振り返ってみましょう。
なお【天海=明智光秀説の考察】を先にご覧になりたい方はこちら(→link)をクリックしてください。
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生まれも育ちも謎だらけ
南光坊天海の生年は不明です。
寛永20年(1643年)10月2日に亡くなったとき、既にかなりの高齢で、100歳や110歳、はたまた120歳なんていう説も。
もし仮に100年前に生まれたとしたら天文12年(1543年)ですので、徳川家康と同年になりますね。
当時の長生き武将としては、以下の記事のように93才まで生きた大島雲八(うんぱち・実名は大島光義・以下に関連記事)がいまして、
93才まで最前線にいた驚異の戦国武将・大島雲八(光義)は弓で大出世を果たす
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天海も100才ならギリギリで有りでしょうか。
生年が不明ということは、出生地や身分も同様で諸説あります。
最も有名なのが前述の「光秀=天海」説ですね。
いかにも怪しい話でまさに眉唾ですが、ではなぜこんな説が囁かれたのか?という詳細については後ほど。
いずれにせよ当時の僧侶は知識人階層となりますので、どこかの寺で学び、優秀だったのは間違いないのでしょう。
幼少期に出家し、14歳で宇都宮・粉河寺に入って天台宗を学び、その後、延暦寺や円城寺、興福寺などでも学んだ……とされているのですが、この経歴もどこまでが事実か怪しいところです。
小田原征伐のころ家康と接点
南光坊天海は元亀2年(1571年)、織田信長が比叡山を焼き討ちにした後、武田信玄に招かれて甲斐に移住したとされています。
比叡山の攻め手というと明智光秀が有名ですよね。あれ?
その後、天海は芦名氏に招かれて黒川城の稲荷堂に移り、上野の長楽寺にも滞在。
天正16年(1588年)に武蔵国の無量寿寺北院(喜多院)に落ち着いたとされます。
江戸崎不動院の住持も兼任していたとか。
現代でも、一人の僧侶が複数寺院の住職を務めていることがありますね。
また「天海」と名乗るようになったのもこの辺りのようです。
家康との接点を持ったのは天海が武蔵に来た翌年、秀吉の画策により徳川が関東へ移封されたときのことです。
表向きは【小田原征伐】の恩賞として、家康は前年から関東の検地を行っていて、その時点で天海の噂を聞いたのかもしれません。
また、小田原征伐の際、天海は既に家康の陣にいたとする説もあります。
いずれにせよ「小田原征伐の前後で家康と天海が知り合っていた」という点は間違いなさそうですね。
この後、家康はたびたび仏法について天海の講釈を受けるようになり、まもなく参謀の一人として徳川家に組み入れられると、朝廷との交渉などを受け持ちました。
江戸の街づくりに風水の知識を活用したともいわれます。
家康や秀忠が亡くなった後の話ですが、江戸城から見て鬼門(北東)に寛永寺(台東区)を作ったのも、風水や陰陽道からの観点だったとか。
ちなみに、裏鬼門(南西)には増上寺(港区)がありますが、こちらは明徳四年(1393年)開基とされているため、天海と直接の関わりはなさそうです。
家康死後に崇伝や正純と論争
家康の信頼を得た南光坊天海は、その後、比叡山延暦寺の復興や、無量寿寺北院の再建などに携わりました。
政治的な面では、大坂の陣の発端となった方広寺鐘銘事件や、その前の大仏開眼供養などの席にいたり、少なからず関係した模様。
僧侶ですので、大坂での戦闘には直接関わっていません。あったとしても、戦後の供養などでしょう。
その後の活動も、主に家康への仏法講義、朝廷との交渉、前述した寺院の再建などが主なものでした。
真っ当な僧侶という印象であり、むしろ、家康が亡くなってからのほうが目立つエピソードが多いかもしれません。
まず、家康が亡くなった際は、神号や葬儀などを巡って、以心崇伝(金地院崇伝)や本多正純らと争いました。
天海は「権現」、崇伝は「明神」を主張。
神道の流派の違いなどから起きたもので、天海は
「”豊国大明神”として秀吉を祀った後に豊臣氏は滅びました。”明神”では縁起が悪いのではないですか」
という意見でした。
また、徳川秀忠が亡くなる間際に神号授与を打診したこともあります。
秀忠が固辞して実現には至っていませんが、天海がかなり高齢になっても矍鑠(かくしゃく)としていたようで、それ以前から罪に問われた人を救けようとするエピソードが目立ちます。
紫衣事件に関わった者たちや、大久保忠隣、福島正則、徳川忠長などの赦免に奔走していたのです。
さらに天海は、個人的な念願として、一切経(大蔵経)の印刷と出版を考えていました。
一切経とは平たくいうと「存在しているお経のすべて」ですから、当然、膨大な量の木版が必要になり、その数なんと26万個以上。
費用も莫大であり、そう簡単に作れるものではありません。
しかし、この印刷・出版活動は幕府の支援を受けて取り組まれ、天海の死後である慶安元年(1648年)に完成しました。
日本の印刷文化史において、極めて重要な業績で、使われた木版の多くも今日まで伝わっているため、まれに公開・展示されるようです。
「正体は明智光秀?」説のせいか、怪しげな存在ともされがちな天海ですが、実際の事績としては徳のある行動を積んでいるんですよね。
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