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【南光坊天海】
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秀忠と家光に一首ずつ贈歌
秀忠や家光に関する南光坊天海の逸話については、「なんともいえないのんびりとした空気を漂わせているもの」もあるので、ひとつご紹介しましょう。
「長寿の秘訣」というテーマで、天海が秀忠と家光に一首ずつ歌を贈ったことがありました。
秀忠宛には
「長命は 粗食正直 日湯陀羅尼 時折ご下風 あそばさるべし」
日湯は毎日お風呂に入ること、陀羅尼(だらに)は仏教の真髄を示す長めの呪文のこと、下風はおならのことを言います。
当時の湯船は贅沢品なれど、江戸城には湯船もお風呂場もありました。将軍ですので服の着脱も体を洗うのもお付きの人任せです。
秀忠は人に触られるのが嫌だったのか、ゆっくり湯船に浸かるのが嫌だったのか……それとも節約のためでしょうか。
一方、家光宛の歌は
「気は長く 務めはかたく 色薄く 食細くして 心広かれ」
と、短気と欲を抑えることを勧めたものでした。
家光は気性の激しさで知られていますので、こちらはなんとなく納得できる方も多そうですね。
共通するのは「食事を控えめに」という点ぐらいで、秀忠・家光があまり似ていない父子だった事が伝わってくる気がします。
それを見抜いていた天海の慧眼もうかがえますね。
自身はかなり足腰などもしっかりしていたようで、元和九年(1623年)に家光が上洛して将軍宣下を受けた際、80歳を超えていたであろう天海もお供しています。
唯識論を読み息を引き取る
このように精力的な活動を続けていましたが、さすがに老いが忍び寄ります。
寛永十三年(1636年)頃からは体調を崩したり、復調したりを繰り返すようになりました。
少しずつ養子に仕事を割り振ったり、家光から医師をつけられたり、それ相応の状況が続きます。
ちなみにこの間、戦国の世を生き抜いた大名や、同時期に生きた女性たちの多くが彼岸の人となっていました。
一例を挙げますと、以下のようになります。
享年80を超えていたと考えられる高台院はともかく、他はみな1550~1560年代生まれで、戦国時代としては若手の人々です。
彼らより年長であったことがほぼ確実な天海の壮健ぶりが異次元というか、なんというか。
本人も「そろそろ」と思っていたのでしょう。
最期の数日間はとても静かなもの。寛永二十年(1643年)10月2日、唯識論を読んでから亡くなったといいます。
唯識論というのは仏教解説書の一つですから、最後の最後まで僧侶らしい過ごし方だったのですね。
さて、だいぶ長くなってきましたが、いよいよ「あの説」についても考えていきましょう。
「天海=明智光秀説」についてです。
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