南光坊天海

南光坊天海/wikipediaより引用

徳川家

なぜ南光坊天海は家康に重宝されたのか 明智光秀説も囁かれる謎多き僧侶の功績

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天海=明智光秀説の根拠とは

そもそも、なぜ光秀説が根強く残っているのか?というと、以下のように様々な理由があります。

・光秀も天海も生年がわかっていない

・光秀の首が確認されていなかった(夏場のため腐敗がひどく判別できなかった)

・天海の前半生が謎だらけ

・その他、光秀=天海と思われる証拠とされるものがいくつか唱えられている

根拠とされる物事について、見て参りましょう。

 


・根拠その1「家光の近辺に旧明智家臣の娘が多い」

徳川家光の乳母である春日局は、明智光秀の重臣だった斎藤利三の娘。

春日局/Wikipediaより引用

さらに家光の子である徳川家綱の乳母・三沢局は、明智光秀の重臣だった溝尾茂朝の孫とされます。

光秀の近親者が二代続けて将軍の乳母になり、「天海=光秀だからこその人事では?」というわけです。

溝尾茂朝は光秀に最後まで付き従い、介錯した後に自害したとされていますが、やはり生死は不明。

偶然にしては確かに……といえなくもないものの、天海が乳母の人事にどこまで関与できたのか? 疑問は残ります。

前述の通り、天海は基本的には聖職者として活動していました。

罪を問われた人の赦免に動いたことはありますが、その他で幕府や徳川家の人事にどこまで口を出せたのか。

乳母は、単に乳をやるだけでなく教育係という面もあり、将軍の幼少期から乳母本人が亡くなるまで、極めて重要な役割を果たします。

近親者だからといって、秀忠や家光の意見もなく、天海のゴリ押しで乳母を決められたかというと……どうでしょうね。

 


・根拠その2「日光東照宮に光秀の家紋(桔梗紋)」

これも有名な説ですね。

天海も関わった日光東照宮で「明智の桔梗紋が使われている!だから光秀と天海は関係あるに違いない」とされた発想です。

では桔梗紋はドコにあるのか?

陽明門・随身像の袴にあると指摘されます。

確かに明智光秀の家紋は”水色桔梗”ですが、桔梗の家紋は清和源氏系の家が多用していて、それだけで光秀に結びつけるのはあまりに強引。

随身像を画像で確認すると、

陽明門随身像

日光東照宮・陽明門の随身像(膝の辺りに家紋があるのですが)

桔梗紋とされるこの文様、袴に使われる一般的なデザインで「窠に霰(かにあられ)文」と指摘されています。

確かに織田木瓜とも桔梗紋とも似ているんですけどね。

左が織田木瓜で右が土岐桔梗・似ているようで違いますよね/wikipediaより引用

特定の家を指し示すものではないということです。

 

・根拠その3 京極家の加増

山崎の戦いで明智方だった京極家は、関ヶ原の戦いで西軍に降伏したにもかかわらず赦免されたばかりか、加増された」というもので……。

関ヶ原の戦いの際、当主・京極高次は西軍に着いたと見せかけつつ、東軍に情報を流し、居城の大津城へ戻って西軍の毛利元康(輝元の叔父)と立花宗茂を引き付けました。

最終的には北政所や高野山からの仲介によって降伏したのですが、これによって関ヶ原へ向かう西軍の兵力は大きく削がれました。

加増はこの選考に対する恩賞というべきもので、天海の口利きや贔屓などではないでしょう。

 


・根拠その4「光秀に敵対した筒井家の改易」

山崎の戦いで光秀に味方をしなかった筒井家が慶長十三(1608年)に改易された。

と、少々ややこしい経緯があるのですが、結論を先に述べますと、これも天海とは関係なさそうです。

「洞ヶ峠」で不名誉な意味で有名な筒井順慶は、関ヶ原から遡ること16年前の天正十二年(1584年)に亡くなりました。

従弟で養子の筒井定次が跡を継ぐと、天正13年(1585年)に伊賀上野へ移封&大減封。

それによって家臣を大量解雇せざるを得なくなっています。

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは東軍についたため、所領を安堵されて伊賀上野藩を創設し、その後、慶長十三年に幕命により改易されています。

改易の理由は、定次の行状がよろしくなかったこと、キリシタンだったことなどでした。

実際には、伊賀という大坂近隣の地に、幕府創設前から根付いていた家がいる……というのが、江戸から見て都合が悪すぎたからでしょう。

山崎の恨みを晴らすにしてもロングパスが過ぎます。

ちなみに、改易後の筒井家が散々な扱われ方なので少し補足しますと、定次は大坂冬の陣で城方に内通したという疑いによって、幕命により息子の筒井順定と共に自害させられました。

その後、従弟の定慶が大和郡山1万石を与えられた……のですが、大坂夏の陣で定慶が戦死。ここで大名としての筒井家は終わりを迎えます。

しかし順慶の養子で定慶の弟である順斎が家康に仕えて旗本となり、こちらは幕末まで続いたようです。

ちなみに、定次の妻は信長の娘・秀子ですが、彼女について「実父が光秀・養父が信長」とする説もあります。

こちらの線でいくとすると、むしろ筒井家は残されていてもおかしくなさそうですね。

 

・根拠その5「明智光秀の外孫・織田昌澄が戦後に助命」

おそらく藤堂高虎の存在が大きく、天海のおかげとはいえなさそうです。

昌澄は津田信澄の長男で、母は明智光秀の娘でした。

なかなか難しい立場な生い立ちですが、彼はかつて父・信澄の家臣だった藤堂高虎に仕え、事なきを得ます。

その後、豊臣家に出仕先を変え、大坂冬の陣では高虎と敵味方として参戦。

この戦功で豊臣秀頼からは褒美を受けたそうですが、大坂城落城後、高虎の嘆願を受けて一命を助けられています。

その後は秀忠に旗本として仕えました。

面白い説ではありますが、やはり光秀と天海が同一人物というのは少々無理がありそうです。

大阪城天守閣に所用したとされる甲冑が所蔵されていたり、「どこそこの戦を見物していた」という話が多々あったり、何かと話題や謎が尽きない天海。

最後のひとつが紐解かれるまで、きっと我々を魅了してくれるのでしょう。


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長月 七紀・記

【参考】
国史大辞典
藤井讓治『徳川家康(人物叢書)』(→amazon
山下昌也『家康の家臣団(学研M文庫』(→amazon
国指定文化財等/文化庁(→link

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