天正十二年(1584年)8月11日、大和国の戦国大名・筒井順慶(つついじゅんけい)が亡くなりました。
「誰それ?」
「聞いたことあるよな、ないような……」
戦国ファンの皆さまでも、そんなリアクションが多いかもしれません。
実はこの方、
という、波乱万丈な生涯を送られた方です。
もしかしたら「山崎の戦いを洞ヶ峠から傍観していたズルい人」という悪評をご存知の方もおられるかもしれません。
筒井順慶とは如何なる武将だったのか?
その生涯36年を追ってみましょう。
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筒井順慶 2歳にして家督を継ぐ
筒井順慶は天文18年(1549年)生まれ。
2歳のときに父の筒井順昭(じゅんしょう)を亡くし、家督を継いでいます。
しかも当時の地元・大和国(奈良県)には全盛期の松永久秀がいて、筒井家は四面楚歌状態でした。
久秀と筒井勢は折り合いが悪く、それでいて久秀には三好長慶という大きな後ろ盾もいて、四方八方を囲まれてしまったのです。
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頼みにしていた叔父の筒井順政(じゅんせい)も永禄7年(1564年)のときに亡くなってしまい、その翌年、久秀に攻め込まれて、居城・筒井城を追い出されてしまいました。
しかし順慶は、城を追われて殺されることはなく、隣国へ逃亡するなどして命は助かります。
もちろん、ただ奪われるだけでなく、久秀と折り合いの悪くなっていた三好三人衆と協力し、居城の奪還に取り組みました。
三人衆と共に繰り返された久秀相手の争いは永禄9年(1566年)頃から激化。
大和の国内(天満山や大乗院山など)で戦闘を重ね、久秀の多聞山城を巡って一進一退となり、その途中の永禄10年(1567年)には東大寺の大仏殿が焼失してしまうという事件まで起きてしまいます。
そこへ三好康長などの助力もあり、どうにか挽回しつつあったところで、一大事が起きました。
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信長の助力を得た久秀に再び攻められ
筒井と松永が激しくドンパチしていたころ、尾張では織田信長が台頭しておりました。
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それが永禄11年(1568年)のこと。
当然ながら中央の勢力にも影響があり、真っ先に動いたのが機を見るに敏である久秀でした。
久秀は信長に通じるや否や、織田家の後ろ盾を得て、再び順慶と交戦。
息子の松永久通に筒井城を攻撃させてこれを落とすと、さらに織田軍2万という援軍も得て次々に城を落とし、またしても順慶は追い出されてしまいます。
もちろん順慶はそれでも諦めませんでした。
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