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【筒井順慶】
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光秀につくか秀吉につくか
織田信長への執り成しを助力してもらっていただけでなく、日頃から教養を通じて親しい仲。
軍事的にも傘下にあったと考えられ、例えば天正九年(1581年)に行われた信長の一大軍事パレード【京都御馬揃え】でも、順慶は「大和衆」として明智光秀に付き従ったと考えられます(『信長公記』に名前は掲載されていない)。
当然のことながら【本能寺の変】後は光秀から「味方してくれるよね」という誘いが届きました。
そもそも本能寺の変は、光秀が秀吉の援軍に出向く途中で起きた事件であり、順慶もその援軍に加わる予定でした。
しかし、コトはそう単純ではありませんね。
いかに戦国時代とはいえ、光秀は主君を討った謀反者です。それまでの付き合いだけで、自信の御家の将来を委ねるワケにはいきません。
光秀につくか、秀吉につくか。
この、悩み動けずにいる筒井順慶を評した慣用句が「洞ケ峠(洞ケ峠を決め込む」ですね。
光秀と秀吉による【山崎の戦い】が起きた戦場付近にいて、立場を明確に示さないずるい姿勢=「日和見」の代名詞として知られる言葉ですが、現実はそこまで酷くありません。
確かに順慶はなかなか決断できずにいました。
明智につく姿勢を示したり、やはり思い直したり。
時間をかけながら、最終的には【中国大返し】で畿内へ迫ってくる秀吉サイドに加わることを決定します。

絵・富永商太
そうしたところ【山崎の戦い】が、わずか一日でケリがついてしまうのです。
詳細は以下の記事をご覧ください。
-
秀吉と光秀が正面から激突「山崎の戦い」勝敗のポイントは本当に天王山だった?
続きを見る
大和の支配権は秀吉の弟へ……
いずれにせよ戦いに参加できなかったのは事実。
順慶は秀吉の怒りを買いますが、大和での支配権は認められました。
跡継ぎの筒井定次も人質として送り、その後、秀吉が柴田勝家や織田信孝らと揉め、後に賤ヶ岳の戦いへ発展したときにも、今度は明確に秀吉サイドに付くことを意思表示しております。
賤ヶ岳の戦い本戦そのものには参加しておりませんが、そのころは一揆軍と交戦しており、自身の基盤固めに邁進していたようです。
宗教勢力の強い大和ですから、秀吉もまずは筒井勢の力を利用しようとしたのでしょう。
しかし、度重なる合戦や政争が心身の負担になっていたようです。
順慶は天正12年(1584年)3月に起きた【小牧・長久手の戦い】にも参加しながら、同年8月、とうとう力尽きて亡くなってしまいます。
享年36。
まだ若い、惜しまれる死でした。
なお、順慶が生涯を賭して願った大和国の支配については、秀吉の弟・豊臣秀長のものとなっています。

豊臣秀長/wikipediaより引用
跡継ぎの筒井定次は伊賀へ転封となりました。
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長月 七紀・記
【参考】
谷口克広『織田信長家臣人名辞典』(→amazon)
峰岸純夫/片桐昭彦『戦国武将合戦事典』(→amazon)
洋泉社編集部『ここまでわかった 本能寺の変と明智光秀』(→amazon)
国史大辞典
筒井順慶/wikipedia