天正3年(1575年)の【長篠の戦い】では武田勝頼に痛打を与え。
その約3年後には上杉謙信が病死――。
敵対していた戦国大名たちが次々に勢力を弱め、快進撃を続ける織田信長でしたが、天正6年(1578年)10月、衝撃的な裏切りにより危機に直面します。
荒木村重が反旗を翻し、有岡城(伊丹城)に立て籠もったのです。
有岡城は、西に毛利、東に石山本願寺という織田家にとって非常に重要な立地。
信長も、織田軍の主力部隊でもってコトに当たらせます。
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今回は、その一連の出来事を見てみましょう。
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大和田城を守る安部二右衛門
尼崎に隣接する大和田城(大阪市西淀川区)に、安部二右衛門(あべ にえもん)という者がいました。
二右衛門は、村重の家臣。
彼の守る大和田城は、尼崎や伊丹付近における交通の要衝であり、村重にとっても非常に重要な拠点でした。
しかし二右衛門自体は『織田方につきたい』と考え、芝山監物という同輩にあたる人物と共に、蜂須賀正勝の斡旋で織田信長の下へ挨拶しに来ます。
それが天正六年(1578年)12月1日のこと。
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信長は大いに喜び、二右衛門に黄金200枚を与えました。
寝返りの褒美にしては多すぎるので、これで兵糧や武器の準備をしろということでしょう。
しかし、です。困ったことに、二右衛門の父と伯父がこれに大反対。
「本願寺と荒木殿に対する不義には、賛成できない!」と言い張り、大和田城の天守に立てこもってしまいました。
安心しきった父と伯父の身柄を押さえ
困ったのが二右衛門です。
仕方なく信長に黄金を返し「やはり、お味方することはできません」と告げます。
父と伯父の経緯を聞いた信長も仕方ないと思い、承諾します。
再び敵となった二右衛門は、織田軍の蜂屋頼隆・阿閉貞征の部隊に攻撃を浴びせ、父と伯父を満足させました。
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しかし、これは二右衛門の策略でした。
父と伯父が安心しきって天守から降りてくると、二人の身柄を取り押さえ、人質として京都に送ってしまったのです。
12月3日の夜、二右衛門は再び信長のいる小屋野の陣を訪れ、事の次第を詳しく報告しました。
信長は二右衛門の策略家ぶりにいたく感心。
秘蔵の左文字の脇差や、馬と馬具一式、太刀代として黄金200枚、そして摂津のうち川辺郡を与えます。
詳しい経緯は不明ながら、芝山監物もなんらかの働きがあったようで、馬を与えられました。
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