今回取り上げる節(弊サイトでは173話)は、天正六年(1578年)秋における近畿周辺の動きが詰め込まれています。
まず10月21日。
「荒木村重が謀反を企んでいる」という報告が信長に届きました。
このころ村重は羽柴秀吉(豊臣秀吉)と共に別所長治の三木城攻略に加わっていたのですが、勝手に引き上げ、有岡城(伊丹城)に立てこもってしまったのです。
信長は事の真偽を確かめるため、松井友閑・明智光秀・万見重元を派遣。
「何か不満があってのことか。言い分があるなら申し出るがいい」
そう伝えたところ村重は「野心はございません」と答えました。
信長は喜び「母親を人質に出し、差し支えなければ出仕せよ」と命じます。しかし……。
村重は出仕してきませんでした。
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村重の裏切りを説得するため城に出向いた官兵衛が
村重の塩対応は秀吉にも伝わりました。
そこで動いたのが村重と旧知の仲だった小寺孝高(こでらよしたか=黒田官兵衛)です。
使者として説得するため有岡城へ出向いたところ、村重は和解に応じるどころか、孝高を監禁してしまうのです。
有岡城の牢に監禁されてしまった孝高。
そんな事情をまったく知らない信長としてはさらに激昂してしまいました。
「孝高も裏切ったに違いない。ヤツの人質を殺せ!」
かくして人質として預かっていた孝高の息子・松寿丸(後の黒田長政)は殺害するよう命じられますが、この一件については竹中半兵衛の機転により信長の前には偽首(別人の首)が出され、事なきを得ています。
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それにしてもなぜ村重が謀反を起こしたのか。
織田家より毛利家を選んだ――ということになるとは思うのですが、実際は諸説入り乱れていてハッキリしておらず、『信長公記』では「信長の厚遇に驕り高ぶり、謀反を企んだ」と記されております。
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とにかく村重のいる摂津国・有岡城は西日本への入口でもあり、織田家としては一刻も早く対応しておく必要がありました。
信長の小姓衆や馬廻衆が皆殺しにされる!?
謀反騒動は一向に終息しないまま、月が変わり11月3日。
信長は安土を三男・織田信孝、稲葉一鉄、不破光治、丸毛長照らに任せ、自ら出陣しました。
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まずは上洛して二条御新造に入り、松井友閑・明智光秀・羽柴秀吉に村重を説得させます。
が、今度もまた効果ナシ。
この頃になると、村重謀反の件は世間にも広く知られていたようで、こんな噂まで流れるほどでした。
「信長が大坂の砦へ派遣しているお小姓衆やお馬廻衆を、村重が皆殺しにするだろう」
ここで言う”大坂の砦”とは、織田軍が石山本願寺を封じ込めるため、石山近辺に建てた複数の砦のことです。
対本願寺の戦況が膠着しており、監察役としてお小姓衆やお馬廻衆などを20日交代で現地へ送っていたんですね。
変な噂をたてられ、信長としても困っていたところ、監察役だった彼らが続々と帰ってきました。
噂を聞いた現地の家臣たちが気を利かせ、送り返したのです。
信長は諸将の機転に喜び、褒美として衣服を与えたそうです。こうした小さなことでも褒美を出す=働きに報いることが、家臣からの人望に繋がったのでしょうね。
第二次木津川口の戦い
そうこうしている間の11月6日、今度は大坂で動きがありました。
本願寺と繋がっている毛利方の船団が、大坂・木津沖にやってきたのです。おそらく、本願寺への兵糧補給が目的だったと思われます。
これを迎え撃つため、九鬼嘉隆が例の大船を含めた船団を率いて出撃しました。
いったん南へ誘導した後、敵の大将がいるらしき船に大砲を打ち込み、他の船が怯んだところで、木津の河口へ追い込んで撃破!
今日では【第二次木津川口の戦い】と呼ばれる海戦です。
【第一次木津川口の戦い】では毛利水軍の焙烙玉に翻弄され、大敗していたことを考えると凄まじい進歩です。
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この勝利だけで本願寺と毛利氏の連携を断てたわけではありません。
しかし「織田水軍が焙烙火矢の対策をしてきた」ことが毛利方に伝われば、多少なりとも足止めにはなるでしょう。
石山本願寺と毛利だけでなく、荒木村重が敵対した状況においてこの一戦は大きな意味を持つことになりました。
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