絵・富永商太

織田家 信長公記

織田軍を震撼させた村重の裏切り! 信長自ら有岡城の攻略へ 信長公記173話

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村重の裏切り
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中川清秀が調略に応ずる

11月23日に信長は再び総持寺を視察しており、この日は特に記載がありません。

18日に命じた件の進捗を確かめる程度で、作業が順調だったのでしょう。

それから約一週間後の11月24日には、信長は年寄衆だけを連れ、刀根山の砦に陣中見舞いをしています。

謀反への対応かつ大所帯での作戦であるだけに、味方の士気を保つ目的があったのではないかと思われ、戦時の対応が垣間見れる面白いエピソードでありますね。

新暦では、そろそろ年末になる時期です。

この日の亥の刻から雪が降り始め、夜通し続きました。

そんな雪の中、動きがありました。

茨木城に立て籠もっていた村重方の中川清秀・石田伊予・渡辺勘大夫という三人の武将のうち、中川清秀が調略に応じ、織田方についたのです。

清秀は織田軍の兵を引き入れ、他の村重方軍勢を茨木城から追い出しました。

調略していた古田重然(のちの古田織部)、福富秀勝、下石頼重、野々村正成らが茨木城の守備に就き、これで背後を脅かされる心配がなくなったため、信長はもちろん、織田軍の多くが安堵したようです。

いったん戦況が有利な方向へ落ち着いたためか。

上機嫌となったであろう信長が11月26日、清秀と右近らに褒美を与えます。

使者に持たせて送ったようです。

清秀に黄金三十枚、その家臣三人に黄金六枚と衣服。

右近に金子二十枚、その家老に金子四枚と衣服。

ちょっとややこしいところですが、「黄金」は金属そのままの金、「金子」はおそらく金貨のことだと思われます。

 

農民たちが甲山へ逃げ込んだ

11月27日、信長が郡山から古池田に陣を移すと、夕方に中川清秀が挨拶に来ました。

もう二度と裏切らないようにするためでしょう。信長はもちろん織田家の一門から様々な物品が清秀に与えられています。

・信長から太刀、馬、馬具一式
・信忠から長船長光の刀と馬
・信雄から秘蔵の馬
・信孝から馬
・信澄から刀

まさに織田家総出の大盤振る舞い。これには清秀も感激したとか。

翌11月28日に信長は小屋野へ進み、有岡城へ四方から詰め寄るような形で、要所要所へ布陣するよう諸将に命じました。

おそらく、一般人にも伝わるほど物々しい雰囲気になっていたのでしょう。

織田軍に恐れをなしたらしき一帯の農民たちが、甲山(かぶとやま)に逃げ込んでいます。

農民たちが何も言わずに逃げたことを不審がった信長は、堀秀政と万見重元に捜索させ、見つけ次第切り捨てさせたといいます。

信長公記の中では、信長が一般人にこの手の乱暴な振る舞いをしたという話は少ないのですが、逃げた農民の中に間諜(スパイ)でもいると思ったのでしょうか。

太田牛一も、少々疑問を抱いているような書き方をしています。

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荒木一族の封じ込め

次に信長は滝川一益丹羽長秀を出撃させ、西宮などへ進出させました。

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花隈に立てこもっていた村重のいとこ・荒木元清を封じ込めることと、その近辺で村重方につく者の排除が目的。

兵庫方面へ進撃し、ここで僧俗・男女の区別なく撫で斬りにし、建物や仏像・経巻などを残さず焼き払ったといいます。

さらに須磨・一の谷まで進んで火を放ちました。

非情なようですが、信長や織田軍としては

「やましいことがないのなら逃げる必要はないし、念を入れたいなら先に誼を通じるべき」

ということだったのですかね。

こうして村重の謀反に対し、一家総出で対応した織田軍ですが、すぐには収束せず、一連の戦は年をまたいで続くことになります。

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信長公記をはじめから読みたい方は→◆信長公記

長月 七紀・記

【参考】
国史大辞典
太田 牛一・中川 太古『現代語訳 信長公記 (新人物文庫)』(→amazon
日本史史料研究会編『信長研究の最前線 (歴史新書y 49)』(→amazon
谷口克広『織田信長合戦全録―桶狭間から本能寺まで (中公新書)』(→amazon
谷口克広『信長と消えた家臣たち』(→amazon
谷口克広『織田信長家臣人名辞典』(→amazon
峰岸 純夫・片桐 昭彦『戦国武将合戦事典』(→amazon

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