歴史を振り返ると、兄弟の関係が命取りの問題になることは度々起きてきました。
一番の理由は「さっさと跡取りを決めておかないと、あれこれケチをつけて担ぎ出してくるヤツがいる」という極めて現実的なもの。
わかりやすいのは織田信長ですかね。
信長と弟・織田信勝(信行)の争いは、周囲の家臣たちの中に「信長様ではマズい」と考えた者がいて、信勝を担ぎ出したのが発端です。
そして信長が勝って無事に家督を継いだのですが、実は信長の上にもう一人、織田信広という兄もいました。
信広は側室生まれだったので最初から後継者争いの中には入れず、一度は反乱も起こしたんですが……あっさり鎮圧され、弟・信長の臣下になっています。
しかし、信長&信広ブラザーズのように、穏便に収束するケースばかりではなく……。
前置きが長くなりましたが、本日の注目は「穏便で済まなかった」ケースの中でも、自らドツボにはまった感じの人。
寛永十年(1633年)12月6日、徳川忠長が自刃しました。
徳川秀忠の三男で、江戸幕府三代将軍・徳川家光の弟に当たります。
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幕府からの命令で将軍の弟が自刃
徳川忠長が自刃したのは数えで28才。
死ぬにはまだまだ早い年齢です。
そこに至るまでの経緯を見てみると、納得できるようなできないような……妙な事情がありました。
自刃の直接の原因は「お前の行動はけしからんから、武士の面目を保って自害せよ」という幕府からの命令によるものとされています。
しかもこれが『家臣を手打ちにした』など、「いつものテンプレか~」とツッコまざるをえない内容でした。
以下の記事、松平忠直のようにフォローを入れたいところですが、
家康の孫・松平忠直が幸村を討ち取った!それでも徳川家に疎まれる理由とは?
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忠長に関しては弁護の余地がありません。
なぜなら忠長には「いや、それやっちゃまずいだろ」的な行動が多すぎるのです。
フィクションでは女の争いとなりがちだが
徳川忠長や幼名の国松という呼び方を覚えている方にはピンときたかもしれません。
事の発端は、家光と忠長二人が元服する前の話にまでさかのぼります。
当時、二代将軍・徳川秀忠とその正室・江は跡取りに悩んでいました。
というのも、家光は幼少時から病弱な上、吃音(きつおん・言葉をすんなり話せずどもりがちなこと)がしょっちゅうあり、天下を統べる将軍としてふさわしくないのでは?と思われていたのです。
それに比べ、忠長は健康で見目の良い子供だったため、「病弱な子に将軍をやらせるのもかわいそうだし、忠長に将軍職を継がせたほうがいいんじゃないか」と考えたのでした。
巷では「春日局が『後継者を家光にすべき!』と家康に直訴して家光になった」という話もありますが、果たして彼女にそこまでの権限があったか。
そもそも家康のいた駿府まで、乳母である春日局が家光をほったらかして単独で行けるとは思えません。
当時の乳母はただ単に母親代わりではなく、教育係も兼ねていましたから余計そうです。
ドラマなどでは、江と春日局という『女の争い』に設定して「春日局が勝った!」という展開になりがちですが、そちらのほうが話が盛り上がって都合よいですしね。
結局、家康が長幼の序列を重んじたことにより、世継ぎは家光になったのでしょう。
江戸城で鴨狩りはさすがにマズいです!
しかし、その頃には、ある意味手遅れになっていました。
徳川忠長は世継ぎと決まった兄を敬うどころか、家光の住まいである江戸城西の丸で鴨狩りをやってしまうのです。
しかも黙っていればいいものを、その鴨を秀忠の食事に出させた上「西の丸で私が撃ち取ったんです!鮮度バツグンです!」と自ら白状してしまいました。
忠長びいきの秀忠も、さすがにこれには激怒。
「お前、世継ぎが住んでるトコの真横で鉄砲撃ったとかアホなのかあああああああ!!!」
ブチキレて、完食することなく出て行ってしまったとか。鴨カワイソス。
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