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【徳川忠長】
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改易から逼塞で親の死に目にも会えず
それでも家光の将軍宣下時に、徳川忠長は【権中納言】という決して低くはない位につきました。
翌年には駿河を中心とした55万石の大大名にもなり、将軍家の一門としては遜色ない身分です。
ちなみに他の家族とはどうだったかというと、江戸の出来過ぎ君こと異母弟の保科正之とはうまくやっていたみたいですね。
しかし忠長は、家康の遺品を正之に勝手にあげちゃったり、「お前が弟なのはもうわかってるんだから、松平姓もらってやろうか」など、余計な世話を焼いてしまっています。
何がマズくて正之が別姓を名乗ってるのか――その理由もよくわかってなかったんですかね。
さらには鴨事件で秀忠に愛想を尽かされてしまったためか、上記の手打ち事件など何かポカをやるたびにあっちこっちへとりなしを頼んでも、完璧なまでにシカトされてしまいます。
そしてせっかくの領地も没収(改易)され罪人扱いになり逼塞(ひっそく・昼間の出入り禁止つきの謹慎)を命じられる始末。
秀忠が亡くなるときでさえ、江戸に入ることを許されませんでした。
当然、死に目にもあっていません。
秀忠を供養するお寺を建てているので、恨んではいなかったのでしょう。
赦免されたいがためのポーズという見方もできますが、そこまでひねくれた人ではない気がします。
もはや処分するしか手はない
とにかく、これで困ったのは家光です。
駿河で大人しく大名をやってくれればまだ付き合いようもあったものを、いったん罪人になったからには処分するしか方法がありません。
いつまでもそのままにしていると、忠長が「殺されないってことは、にーちゃんいつか許してくれるかも!?」なんて期待を抱いてしまうかもしれませんし、周りがこっそり逃がして担ぎ上げ、騒動を起こす可能性もゼロではないからです。
実は、徳川忠長が自刃した本当の理由は未だはっきりしていません。
家光が極秘に命令を下したのかもしれませんし、気を利かせた?重臣が「自刃に見せかけて殺ってこい」というように刺客を放った可能性もあるでしょう。
または、誰かが忠長に「上様がアナタをすぐ殺さないのは、ゆっくりいたぶり殺すための手を考えているからだそうですよ……」なんて吹き込んだのかもしれません。
大坂の陣で戦功のあった松平忠直ですら、ほとんどでっちあげに近い方法で処分している江戸幕府ですので……はてさて真相やいかに。
元はといえば、世継ぎの決め方がフラフラしていた秀忠夫妻が悪い気がしますね。
そう考えてみると、忠長自刃の遠因は将軍夫妻の教育失敗ということになります。
なお『国史大辞典』によりますと、表向きの理由は、
駿府の西丸子山に駿府浅間神社の神獣だとされる野猿が住み、村々に出没して田畑を荒らしたが神の祟りを恐れて誰もが捕獲しないでいた。
忠長は住民が困惑するのを見てこの猿狩をした。
ところがその帰途乗輿の中から舁夫を突きさして殺し、神獣の祟りで発狂したなどといわれた。(国史大辞典)
だそうです。
「神獣の祟りで発狂」って凄いすね。
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長月 七紀・記
【参考】
国史大辞典
歴史読本編集部『歴史読本2014年12月号電子特別版「徳川15代 歴代将軍と幕閣」』(→amazon)
歴史読本編集部『歴史読本2013年1月号電子特別版「徳川15代将軍職継承の謎」』(→amazon)
松平忠長/wikipedia