土肥実平

源範頼・源義経の平家追討軍出陣の図に描かれた土肥実平/国立国会図書館蔵

源平・鎌倉・室町

初戦で敗北の頼朝を支えた土肥実平|西国守護を任される程にまで信頼され

2024/12/06

大河ドラマ『鎌倉殿の13人』で、地味だけど、お茶目な存在で話題となった土肥実平(どひ さねひら)。

源頼朝が「実平をいちばん頼りにしていた!」と芝居っ気たっぷりにウソをつき、涙を浮かべ二人で抱き合うなど、北条義時が唖然とするほど白々しい場面もありましたが、実はあのシーン、まんざら三谷幸喜さんのおフザケとも言い切れません。

というのも、史実での土肥実平は、石橋山の戦いで頼朝らの命を救う決断をして、その後、きっちり重用されていたのです。

実に、三カ国の守護に任じられるほどで、他の有名武士に比べて現在の知名度はいささか低すぎる気もします。

では実平は、具体的にどんな働きをしたのか?

史実の土肥実平を追ってみましょう。

土肥実平/国立国会図書館蔵

🛕 中世日本|源平・鎌倉・室町時代における武家政権や文化を解説

 


伊豆に近い土肥実平の地元

土井実平の生年は不明。

もともとは桓武平氏(平高望-平良文)の流れを汲む土肥氏の出身で、相模国の土肥郷(現・神奈川県足柄下郡)に根ざしていました。

以下の地図でも一目瞭然なように、土肥郷は伊豆からかなり近いところにありますね。

彼ら一族は結束が固かったようで、治承四年(1180年)8月に源頼朝が挙兵すると、弟(土屋宗遠)や息子(小早川遠平)と共に馳せ参じました。

残念ながら、大庭景親伊東祐親を相手にした緒戦【石橋山の戦い】では敗北してしまいますが、実平はなかなか冷静沈着なタイプだったようで、敗れた頼朝軍に数々の助言をしたと伝わります。

・「自害したい」と願った頼朝に正しい作法を教えた

・自害をやめて逃げることが決まったとき、頼朝に従おうとする他の武士たちに「今は分散したほうが生き残れるでしょう」と諭した

この決断が源氏や北条軍の命運を左右したといっても過言でありませんよね。

頼朝も実平の冷静さを買ったらしく、その助言に従いなら景親や祐親の軍勢から逃れ、共に安房へ渡ることができました。

 


治承・寿永の乱で堅実に活躍

緒戦【石橋山の戦い】で敗れた源頼朝。

関東エリアの武士に愛想を尽かされるかと思ったらその逆で、頼朝は上総広常らの助力を得ると、治承四年(1180年)の【富士川の戦い】で鮮やかな勝利を得ます。

この一戦は武田信義の功績だったと目されていますが、頼朝にとっての勝ちは勝ち。

韮崎市役所前の武田信義像/photo by タイスキ大好き

同年その勢いのままに佐竹氏討伐へ出向くと、土肥実平は北条時政と共に武蔵国の武士統率を任されました。

それだけ頼朝の信頼も厚くなっていたんですね。

以下のように

富士川の戦いの後、義経が頼朝に対面しようとしたときに実平が怪しんだ

・治承五年(1181年)1月に梶原景時を頼朝に取り次いだ

人事に関わるエピソードでも実平の名が登場します。

そうした期待に応えるように、実平はその後も源平合戦(治承・寿永の乱)で活躍を重ねていきました。

年表で確認しながら、見て参りましょう。

元暦元年(1184年)木曽義仲の討伐

元暦元年(1184年)一ノ谷の合戦

元暦元年(1184年)屋島の戦い

文治元年(1185年)壇ノ浦の戦い

文治五年(1189年)奥州合戦

実平にとって、大きな転機となったのは【一ノ谷の合戦】でしょう。

 

備前・備中・備後三ヵ国の守護

なぜ一ノ谷の戦いが土肥実平にとっての転機なのか?

というのも、この勝利の後、備前・備中・備後三ヵ国の守護に任じられるのです。

同時に梶原景時も播磨・美作二ヵ国の守護に任命されていて、頼朝がこの頃の中国エリアを実平と景時に任せようと考えていたことがうかがえます。

なんせ当時の中国地方は、対平家の最前線ですから最も重要といえるところ。

二人に対する頼朝の評価と信頼が伝わってきますね。

かつては源頼朝、近年では足利直義では?とされる神護寺三像の一つ(肖像画)/wikipediaより引用

その引き立てぶりは、他の武士から嫉妬されるほどで、元暦元年(1184年)2月、甲斐源氏である板垣兼信(武田信義の三男)がこう訴えています。

「実平がいるせいで、遠征軍の編成や準備に私は関与できません」

板垣にしてみれば、源氏である自分が大役を任されるべきなのに……というわけです。

対する頼朝は何と答えたか?

「実平は信頼できるし、西国の代官を任せるに足る器だからやらせているのだ」

言外に

『源氏だからというだけで、重い役目を任せることはない』

という意が含まれている気もしますね。

頼朝はたとえ弟であっても”家臣”として扱っていましたので、遠い親戚の甲斐源氏であっても同様ということでしょう。

逆に言えば、身内でもちょっとしたことで謀反の疑いをかけるきらいのある頼朝が、

「実平は信頼できるから、何をやらせても大丈夫だ」

と確信できるほど、日頃の実平が信用されていたことになります。

日頃から質素な生活を好んでいたそうですので、それも好ましかったのでしょう。

細かな日常については記録に残りづらいので、なかなか実証しづらいのがもどかしいですね。

 


建久二年(1191年)を最後に記録から消え

元暦二年(1185年)4月には

「土肥実平と梶原景時が畿内近国の荘園公領を横領している」

という訴えもありました。

頼朝は「彼らが悪いのではなく、代官たちが勝手にやったのだろう」として、代官を咎める書状が発行されるだけで済んでいます。

また『平家物語』では【壇ノ浦の戦い】直前に源義経と梶原景時が言い争った際、景時を止めたのが実平だとされています。

源義経/wikipediaより引用

平家物語はあくまで創作なので、事実かどうかはアヤシイものの、成立当時の人々から見て

「このようなときに実平ならば仲裁するだろう」

と評価されていたのではないでしょうか。

そんなわけで実平本人については、特にトラブルや荒っぽい話もなく……となると、記録における登場も少なくなってしまいます。

建久二年(1191年)7月、鎌倉で厩の立柱上棟の奉行をしていた――という記録が最後に、この後どうしていたのかハッキリしません。

吾妻鏡』は一部を除いて人の没年に関する記述があいまいですので、ご多分にもれずというか、なんというか。

同著の建久六年(1195年)7月13日に

「実平の後家の尼(出家した未亡人)が鎌倉へ参上し、酒などを献上した」

という記述が出てくるため、実平は1191年7月~1195年7月12日までに世を去ったと考えられます。

 

湯河原町の城願寺を創建

最後にもうひとつ、土肥実平に関する事績に注目しますと……。

地元である湯河原町の城願寺は、実平が創建したものだといわれています。

城願寺(湯河原)表参道と仁王門

城願寺(湯河原)表参道と仁王門/wikipediaより引用

こちらの山号である「萬年山」は、実平が「萬(万)年経っても我が家が栄えるように」と願ってつけたものなのだとか。

その通り……といいますか、この後の土肥氏は長く血を繋げていきます。

実平の孫である維平が【和田合戦】で和田義盛方についたため、一時、家勢は衰えたものの、子孫の一部は戦国時代まで続いたようです。

残念ながら、最上家のお家騒動に巻き込まれ、江戸時代初期に絶えてしまいますが……鎌倉時代から江戸初期まで続いたというだけでも、歴史上では稀でしょう。

もしも長生きしていたら、源頼家を支えるメンバーが14人にっても不思議はなかった――そう言えるのが土肥実平という武士ではないでしょうか。

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【参考】
安田元久『鎌倉・室町人名事典』(→amazon
ほか

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長月七紀

2013年から歴史ライターとして活動中。 好きな時代は平安~江戸。 「とりあえずざっくりから始めよう」がモットーのゆるライターです。 武将ジャパンでは『その日、歴史が動いた』『日本史オモシロ参考書』『信長公記』などを担当。 最近は「地味な歴史人ほど現代人の参考になるのでは?」と思いながらネタを発掘しています。

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