【人物概略:松平忠直】
父は結城秀康(家康の次男)。
母は中川一茂の妹。
文禄4年(1595年)に秀康の嫡男として生まれた。
幼名は長吉で、1606年に元服すると1607年には父の死去に伴い13才の若さで越前68万石を引き継ぐ。
1611年に徳川秀忠の四女・勝姫と結婚し、1614~1615年の大坂の陣にも参加。
夏の陣では忠直率いる越前勢が大坂城への一番乗りを果たし、真田信繁(幸村)はじめ3750もの首を挙げる大活躍をしている。
しかし、恩賞が少なかったために不満を抱き、幕府に対して数々の乱行を起こすと、ついに1623年、隠居を命じられた。
これにて忠直は改易に処されたが、嫡男の松平光長は越後高田藩主(26万石)に就任。
忠直はその後割と生き延びて、1650年に亡くなる。
享年56。
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松平忠直は三代将軍・家光の従兄
慶安3年(1650年)9月10日は、松平忠直の命日。
幕府によって隠居させられた忠直が、預かり先の豊後(大分県)で亡くなった日です(享年)。
松平忠直の父は、家康の次男・結城秀康(福井藩祖)。
つまり家康の孫であり、三代将軍・徳川家光の従兄にあたります。
生まれた順番が優先される環境でしたら、父の結城秀康が二代目の将軍になり、忠直が三代目になる可能性もありました。
しかし秀康は母の立場が不確かな上に、若いころ秀吉の人質になり、さらに関東の結城家へ養子に出ていて将軍になることができなかったのです。
松平姓は許されたものの、その子供である忠直にも将軍になる権利は与えられませんでした。
これが忠直の性格を歪ませていくことになった……といわれています。
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信長も愛した「唐物肩衝茶入・銘初花」が褒美だが
かくして鬱憤の溜まる環境にいた忠直ですが、それでも世の中が落ち着くまでの間は、徳川一門としてきちんと働いていました。
大坂夏の陣であの真田信繁(真田幸村)を討ち取ったのも、実は忠直隊です。
あと一歩で徳川家康を殺すことができる!
というところまで追い詰めた幸村が力尽き、やってきた兵士に「俺の首を持ってけ」と差し出した――なんてカッコイイ逸話がありますが、あくまで伝説。
実際は、戦乱の中で福井藩士・西尾仁左衛門が討ち取り、後の首実検(首の顔を確認すること)で判明したと伝わりますね。
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それ以外に、大坂城へ一番乗りしたのも忠直であり、挙げた首の数は3,000以上ともいわれています。
普通なら勲功はダントツで第一!
となるはずですが、その前の冬の陣でヘマをやらかしてしまっていたためか、褒美はなんと茶器一個でした。
ただし、これがトンデモナイ代物でありまして。
あの織田信長や足利義政も愛した「唐物肩衝茶入・銘初花」(からものかたつきちゃいれ・めいはつはな)という中国伝来の名品だったのです。
なんせ「茶入れの王」とも呼ばれる大名物ですからね。
漫画『へうげもの』を読んでいれば、誰もが知っている一国と等しく価値の高いものです。
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キレて初花を投げつけ、割ってしまった!
家康としては高価な品でなだめたつもりだったのかもしれません。
が、忠直にはその価値がわかりませんでした。
「あんだけ働いたのにこれだけなんて、プラマイゼロどころかマイナスじゃねーか! 部下に褒美やれねーよあのくそジジイ!!」
そうキレて初花を投げつけ、割ってしまうのです。
家臣が何とか修繕したらしく、この茶器は現存していますが、なんとも痛々しい痕跡が残っています。
これで忠直の反抗魂に火がついてしまったのか。
次は参勤交代をサボってしまいます。
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ヤバいですね。
ご乱心主君のテンプレが出てくるのはこのあたりからです。
例えば、妊婦の腹を割いたとか、正室を殺しかけたとか。
「それ、もうどっかで聞き飽きたなぁ……」と言わざるを得ないような悪行エピソードばかりが並べられます。
領地だった福井県には
「忠直がこの上で妊婦の腹を割かせたんだよ!」
と言われている【まな板石】なんてものもあります。しかも……。
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