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【徳川家斉と一橋治済の治世は幕府崩壊の始まり】
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“オットセイ将軍”と呼ばれるほどの房事過多
大河ドラマでは2025年『べらぼう』が初登場となる徳川家斉。
しかし、映像化という意味では出場機会は決して少なくなく、その作品タイトルを見ていくと、何やら成人向けのものが多いこともわかります。
例えば『エロ将軍と二十一人の愛妾』という映画まであるほど。
家斉はなんせ将軍随一の子沢山であり、その数は53人とも55人ともされます。
先代の家治は、唯一成人した男子が家基だけであり、それが家斉を将軍の座につけた大きな一因でした。
一方で父の一橋治済は精力絶倫であり、それゆえ将軍の父になれたといえる。
父は己の血を引く家斉にも、子作りを奨励したとされます。
治済は、朝から魚や生卵が食膳にのぼったとされ、家斉も父同様、スタミナたっぷりの食生活を送りました。
その好物をみてみますと……。
生姜:勢力がつくため、精進料理では避ける五葷(ごくん)のひとつ
白牛酪(はくぎゅうらく):乳製品。当時の日本人としては異例の好み
海狗腎(かいくじん):オットセイの陰茎および睾丸。最高級精力剤
庶民が口にできるのはせいぜい生姜までのこと。吉原の遊客や女郎だってせいぜいが生卵どまりです。
それが将軍ならではの贅沢極まりない輸入高級漢方薬まで用いていたのですから、相当のものでしょう。
時代劇のお約束として、大奥で行為に励む将軍があります。

橋本(楊洲)周延画大奥/Wikipediaより引用
実際、そんなイメージ通りの生活を送っていたのは、家斉ぐらいのものではないでしょうか。
家康も子沢山ではありますが、彼の時代には大奥はありません。
東洋医学においては、過度な性行為は寿命を縮める禁忌とされています。
そんな価値観を信奉していればこそ、高級漢方薬を服用したのでしょう。
渋沢栄一のせいで「儒教規範には性的逸脱を戒める記述はない」と誤解されることがありますが、実際はそんなことはなく、酒色を避けることは東洋の大人(たいじん)の常識的な節度。
そこから逸脱してまで、家斉は文字通り命を賭けてまで、子を作り続けたのです。
結果、後世で“ハーレムエロ将軍”扱いをされてしまうのですから、気の毒といえば気の毒。
しかも父・一橋治済の意向に沿ったためというのが、なんともおそろしいではありませんか。結果的に家斉を通して、治済の血統は【御三家】にも【御三卿】にも流れることになったのです。
家斉の子沢山、幕府の屋台骨を揺るがす
妻妾は確認できるだけでも16人。
儲けた男子は26人、女子は27人(子の総数は諸説あり)。
当時は夭折する者も多く、成人したのは28人とされます。
果たして彼らはどこへ行けばよいのか?
まさか将軍の子を市井に放り出すわけにもゆかず、幕閣は養子先の選定に右往左往する羽目となりました。
女子であれば、嫁入り道具ひとつとっても莫大な金がかかり、男子ともなれば養子先を加増させ、官位も上げねばならない問題まで生じてきます。
結局、家斉の子沢山は、幕府の財政をさらに逼迫させ、幕閣を疲労させることになったのです。

嫁入り道具の一つ・貝合わせの貝/wikipediaより引用
幕政にヒビを入れてしまう事態も、子沢山ゆえに発生しています。
家斉の子を大名家の養子とするにあたり、三方領地替え(さんぽうりょうちがえ)が実施され、これに庄内藩の民衆が反発して一揆を起こしたのです。天保11年(1840年)に起きた【天保義民事件】と呼ばれます。
民衆が、もはや幕府の言いなりになるだけではないことを示す、ターニングポイントとなる事件でした。
さらに、御三家の水戸藩においても見逃せない事態が生じます。
7代水戸藩主・徳川治紀には成人した男子が4人おり、長男・斉脩が8代藩主となりました。
二男と四男は他家へ養子に出され、三男の徳川斉昭は水戸で部屋住み。
すると文政12年(1829年)、徳川斉脩が継嗣なきまま病に倒れてしまいました。
同時に、家斉の二十一男、後の徳川斉彊(なりかつ)養子とする動きが起きるのですが、水戸では斉脩の弟である斉昭が健在です。

徳川斉昭/wikipediaより引用
だからでしょうか。
江戸に赴き「斉昭を藩主とすべし!」と訴える水戸藩士がいて、この運動が実ったのか斉昭は9代藩主となるのでした。
将軍の権威を跳ね除けたこの一件は、斉昭にとって大きな成功体験となったのでしょう。
斉昭はしばしば幕政に口を挟むようになり、よりにもよって【黒船来航】以降の国防にまで口を出し、幕閣を大いに悩ませるのです。
明治になると旧幕臣たちはぼやきました。
水戸の親子(徳川斉昭と徳川慶喜)が幕府を崩壊に導いた――。
実際は、子沢山の悪影響も幕末にまで祟っているんですね。
しかも、家斉の次に将軍となった徳川家慶は子が少ないうえに、成人した13代将軍・徳川家定は病弱。
男子ができず、薩摩からは篤姫が送り込まれ、これまた幕末の政争火種である【将軍継嗣問題】に発展しております。
結局、家斉の子沢山は、悪影響の方がはるかに大きいものでした。
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