忠勝のように最強と畏怖されるでもなく。
政信のように知略を称えられるわけでもない。
されど徳川家康が江戸で武家政権を運営してゆくにあたり、絶対に欠かせなかった人物がいます。
伊奈忠次です。
この忠次、実に二度も徳川家から離れておきながら、三度目の正直で才能を開花させ、家康の政権運営を支えたとも言える重要な人物。
1610年8月1日(慶長15年6月13日)はその命日。
いったい伊奈忠次とは何者なのか、振り返ってみましょう。

絵・小久ヒロ
三河に生まれて出奔
伊奈忠次は天文19年(1550年)、三河国幡豆郡小島城主・伊奈忠家の嫡男として生まれました。
家康が天文11年(1543年)生まれですので、年代的にはほぼ一回り下。
しかし永禄6年(1563年)の三河一向一揆で父が反家康派に加わっていたこともあり、徳川家を出奔してしまいます。
つまり生まれてからずっと家康に従っていたわけではないんですね。
父と共に徳川へ帰参したのは天正3年(1575年)。
武田軍と死闘を繰り広げた【長篠の戦い】に参戦すると、その功から徳川への帰参を許され、家康嫡男の松平信康に付けられました。

松平信康/wikipediaより引用
しかし、戻ったのも束の間、天正7年(1579年)に信康が自刃に追い込まれて、またしても忠次は居場所を失い、家康のもとを離れます。
身の落ち着き先となったのが和泉国・堺でした。
神君伊賀越えで再び徳川へ
天正10年(1582年)6月、織田信長と共に武田家を滅ぼした徳川家康主従は、堺見物を楽しんでいました。
そこへ驚愕の知らせが届きます。
【本能寺の変】により、織田信長が明智光秀に討たれたというのです。

織田信長(左)と明智光秀/wikipediaより引用
このとき堺にいた伊奈忠次も家康一行に加わり、主従ともども決死の【神君伊賀越え】を乗り越えます。
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神君伊賀越えのルート&全日程|本能寺後の家康は三河までどう辿り着いたのか
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伊賀越の詳細は以下の記事に譲りまして、九死に一生を得た家康は、忠次の帰参を許し、父祖の旧領も取り戻しました。
忠次にとっては絶好のタイミングだったのかもしれません。
このころ合戦だけではなく、将来的な治世も見据えた家康にその才を見込まれた忠次は代官衆筆頭に任命されたのです。
こうした事業に向いていたのでしょう。
駿河、遠江、三河の奉行となった忠次は、徳川軍の小荷駄や兵糧の管理、輸送路の整備といった事業を一手に請け負うようになりました。
江戸の整備を行う
織田家内での権力争いを勝ち抜き、徳川家康も従属させ、北条氏も滅ぼした豊臣秀吉。

豊臣秀吉/wikipediaより引用
天下人となった秀吉の意向により、家康は北条氏に代わり、関東の広大なエリアを新たな所領とされます。
『吾妻鏡』を愛読し、後に東国政権を築く家康ですが、当初から関東で徳川政権を築こうと考えていたとは思えません。
源頼朝が本拠地とした鎌倉は、父祖のゆかりがありました。
家康の場合、江戸に移封を決めたのは、あくまで秀吉の都合です。
最初から「江戸を日本一の都市にしよう!」なんて考えたとは思えませんし、そもそも家康時代の江戸はあくまで基礎ができた程度。
その後、何代もかけて世界有数の都市へと変貌してゆくのです。

大きく発展していた弘化年間(1844年-1848年)の江戸/wikipediaより引用
伊奈忠次もそうです。
子の伊奈忠治と共に関東の整備に尽力しますが、忠次が主に手掛けたのは江戸城建設といった街や住居の整備ではなく“水”。
江戸周辺天領(幕府直轄地)の代官として、数多の治水事業を手掛けました。
では、その具体的な取組を見てみましょう。
忠次の事業
伊奈忠次が取り組んだ主な事業は以下の通りです。
◆利根川東遷事業
→利根川の流れを合流させて東へ移し、銚子へと導く

川俣締切阯の石碑/wikipediaより引用
◆六堰
→埼玉県深谷市にある六堰のうち五堰を整備。水田地帯を開発する

六堰頭首工/wikipediaより引用
水は、言わずもがな、都市にとって最も重要なインフラの一つ。
他にどんな好条件が整っていようとも、水がなければ人は生きていけません。
その点、忠次の治水事業が適切だったからこそ、江戸も世界有数の都市となることができたと言える。
そして慶長15年(1610年)、享年61で忠次は没します。
遺領と代官職は、忠次の嫡男・伊奈忠政が継ぎました。
父が残した事業は次男の伊奈忠治が引き継ぎ、さらに河川の開削に励みました。
清廉潔白な代官として、伊奈家は治水を手がけ、製塩や桑、麻、楮の栽培なども伝えます。
民の暮らしを豊かにした伊奈一族は、感謝と共にその名を残したのでした。
代官といえばなぜ「悪代官」なのか
伊奈忠次と忠政の父子は、良い代官だったと伝わります。
しかし現代人にとって「代官」といえば「悪代官」というイメージが強くはありませんか?
時代劇における悪役の定番で、百姓を虐げ、賄賂をたかる。パチンコのネタにもされてしまう。そんな悪どいイメージが根強く保たれています。
これはなぜ?
というと幕末以降のイメージがあるのかもしれません。
江戸時代も、時代がくだるにつれ、政治的な限界が訪れると、民衆の不安は増大し、その矛先は代官へ向けられます。
例えば、大河ドラマ『青天を衝け』でも、代官の理不尽に怒る主人公・渋沢栄一の姿が描かれました。

若き日の渋沢栄一/wikipediaより引用
政治経済が危機を迎えていた幕末。それが目の前で悪代官という形となって主人公の前に出現したのでしょう。
現実には、渋沢栄一の仲間であった天狗党の方が、はるかに厳しく民衆を痛めつけています。
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また、明治以降の政治批判の文脈も考えておきたいものです。
日本では悪辣政治家をストレートに批判することがなかなかできず、江戸時代の政治家に託して批判することも往々にしてありました。
つまり、明治時代の政治家の悪さを江戸時代の代官に負わせたのです。
実際の代官が、完璧で問題がなかったとは言い難いですが、大半は真面目に職務をまっとうしていたことを踏まえたほうが自然――そんな良き時代の代官の典型例が伊奈親子でした。
なぜ忠次は影が薄いのか?
伊奈忠次は戦国武将というよりも、江戸初期の代官としての経歴の方が重要です。
舞台が戦国時代ではあまり目立たない。
生涯をたどると、何度か出奔もしており、戦場では裏方で活躍するほうが多い。
家康が実際に江戸にいた期間も短い。
幕府が開くまでは上方にいて、将軍職を秀忠に譲ってからは駿府にいました。
ですので、関東平野の治水や行政にあたった伊奈忠次とは接点が薄くなっても、そこは致し方ないところです。

伊奈忠次像(茨城県水戸市の備前堀道明橋上)/wikipediaより引用
では『どうする家康』ではなぜ、当初の伊奈忠次の扱いが大きかったのにもかかわらず、ほとんど出番も見せ場もなかったのか。
経歴に謎が多くとも、大河ドラマで印象を残した人物はいます。
例えば『鎌倉殿の13人』における八田知家がその一例であり、本来は謎多き武士でしたが、劇中では土木工事担当者という位置付けとされました。
市原隼人さんの肉体美もあって話題をさらったものです。
しかし、伊奈忠次は結局そうならなかった。
後に東京へと続く都市の礎を作った方だけに、もっと注目されてもいい。どこかでその機会に恵まれることを願っています。
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【参考文献】
二木謙一『徳川家康』(→amazon)
『徳川家康事典』(→amazon)
『悪代官はじつは正義の味方だった 時代劇が描かなかった代官たちの実像』(→amazon)
他






