服部半蔵正成

服部半蔵正成/wikipediaより引用

徳川家

忍者ではなく武士だった服部半蔵正成の生涯55年 伊賀越え後はどんな立場だった?

毎年11月14日は、服部半蔵正成が開いた西念寺で「半蔵忌」の法要が営まれる日。

服部半蔵といえば?

忍者でしょ!

と答えたくなるほど伊賀忍者のイメージが浸透していますが、実際、家康のもとでは武士の職にあって徳川を支えてきました。

結果、後に「半蔵門駅」の名にもなる屋敷を江戸城の裏手に与えられるという出世を果たしています。

では一体、服部半蔵正成にはどのような活躍があったのか?

その生涯を振り返ってみましょう。

なお、徳川家にはもう一人の“半蔵”こと渡辺守綱もいますので、以降は「正成」表記で進めさせていただきます。

※以下は渡辺守綱の生涯まとめ記事となります

渡辺守綱
一度は家康に背いて戦ったが 渡辺守綱は徳川十六神将にも選ばれる有力家臣

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初陣と三河一向一揆

服部氏は、服部半蔵正成の父である保長の代から松平氏に仕え始めました。

保長は家康の祖父である松平清康、ならびに父の松平広忠、そして徳川家康に仕えています。

家康の祖父である松平清康/wikipediaより引用

正成本人の動向については、弘治三年(1557年)の初陣までハッキリしていません。

兄たちの援助を受けて暮らしていたことと、小さい頃から剛力だったことが伝わっていますので、腕っぷしの立つ少年だったのは間違いなさそうです。

では正成の初陣とはいかなるものだったのか?

弘治三年(1557年)に正成は、今川家傘下・徳川軍の一員として三河宇土城(上ノ郷城)を攻めました。

このときの働きが家康の目に留まり、盃と槍を拝領したと言われています。

次に活躍が見えるのは永禄三年(1560年)、あの【桶狭間の戦い】です。

同戦で今川義元が敗死すると、家康は今川家から独立。

正成は、旗本馬廻衆の一人として仕えるようになり、もう一人の”半蔵”こと渡辺守綱と同輩でした。

正成は一向宗徒でしたが、永禄六年(1563年)【三河一向一揆】では家康について戦っています。

昨今は、単なる一向一揆ではなく、今川家を背後に控えた三河国衆たちと家康の対立という指摘があり、渡辺守綱も敵方になっています。

最終的には、家康が敵対した武士たちの多くを不問に付したため、一揆は収束へ向かい、多くの者たちが家康のもとへ帰陣しました。

元亀元年(1570年)、織田徳川連合軍vs浅井朝倉連合軍の【姉川の戦い】では、知略を用いた活躍が伝わっています。

浅井長政/wikipediaより引用

このとき正成は、退却中だった浅井軍の一団に遭遇してしまいながら、

「自分も浅井方なので、一緒に退却しよう」

と偽って、しばらく行動をともにしたというのです。

バレたらその場で討たれてもおかしくない作戦ですが、それだけ正成の肝が太かったか、あるいは弁がたったか。

道中で弟の半助と鉢合わせしてしまい、声をかけられたところで即座に立場を切り替え、浅井軍を倒して半助に首を譲ったとも。

謎の多い姉川の戦いですが、正成の臨機応変ぶりと、戦闘能力の高さは認められていたからこその話かもしれません。

 


三方ヶ原の戦い

戦の話が続きます。

武田信玄を相手にした家康がピンチに陥ったことで知られる元亀六年(1572年)【三方ヶ原の戦い】。

服部半蔵正成は先手の大須賀康高隊に配属され、一番槍を上げました。

『どうする家康』では登場しなかった大須賀康高ですが、徳川二十八神将の一人に数えられる武将です。

大須賀康高/wikipediaより引用

ご存知のように、三方ヶ原の戦いで徳川勢は大惨敗。

正成は、家康を守りながら戦い、顔と膝を負傷しながらも、主君を討とうと追いついた武田軍と格闘戦を演じたといいます。やはり個人の戦闘力は高かったのでしょう。

戦場から敗走し、浜松城に入った後は、味方を鼓舞するため再び城を出て一騎打ちをし、首を上げて戻ってきたなんて話もありますね。

「鬼半蔵」という異名がいつ頃つけられたのか不明ながら、こうした戦績が事実であれば「さもありなん」と言ったところでしょうか。

むろん家康には働きを高く評価され、褒美として平安城長吉の槍と無銘の槍、さらには伊賀衆150人をあずけられたとされます。

平安城長吉の槍とは、そのまんま平安城長吉という刀匠が作った槍で、村正の師ともされる人物です。

村正というと、家康や徳川にとっては呪われた刀――なんて伝説が知られますが、実際は偶然が重なった話で呪いも何もないというのが正解かなという印象です。

徳川家と槍と言えば本多忠勝蜻蛉切がよく知られ、いずれも以下の記事にて詳細がございますので、よろしければ後ほどご覧ください。

妖刀村正の伝説
家康を傷つけ徳川家を呪ったという「妖刀村正の伝説」はドコまで本当なのか?

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次に、なぜかあまり注目されない正成の妻についても見て参りましょう。

 


長坂血鑓九郎信政の娘を正室に迎え

天正三年(1575年)、服部半蔵正成は長坂信政の娘を正室に迎えました。

夫婦間に目立ったエピソードは残されていない代わりに、舅となった信政の異名が凄い。

「血鑓九郎」という物騒な異名が付けられているのです。

信政もまた徳川家臣であり、槍働きが凄まじいことで知られ、「常に槍の穂先が敵の血で濡れていた」ということからきています。

結婚後、程なくして長男が生まれ、その後も複数の子に恵まれているので、夫婦仲は悪くなかったのでしょう。

その後の正成は、高天神城を巡る戦いへ向かい、このときも大須賀康高の隊へ配属されています。

高天神城

難攻不落の堅城として知られる高天神城図/photo by お城野郎!

大須賀隊はかなり個性豊かなメンバーが顔を揃えていました。

例えば前述の渡辺守綱や、鉄砲の名手・鳥居金五郎など。

康高は高天神城の攻防で成果を挙げていた人として知られますので、癖のありそうな武将たちを束ねるのが上手だったのかもしれません。

正成もまた着実に実績を積み上げ、そのせいか、天正七年(1579年)に辛い役目を背負わされます。

徳川家に関わる話で避けては通れない【信康切腹事件】です。

家康の長男・松平信康が自害に追い込まれ、実母の築山殿(瀬名)も討たれたとして知られる一大事件です。

大河ドラマ『どうする家康』では、瀬名の東国同盟構想が前面に出てしまい、いささかわかりにくくなってしまったので、改めて同事件を振り返ってみましょう。

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