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【服部半蔵正成】
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家康の関東入封と共に8千石を賜る
神君伊賀越えの後、服部半蔵正成には”御先手頭”という役目が与えられました。
正成が忍者ではなく、立派な武士であることの証左とも言えるでしょうか。
その一例として本能寺の変後に旧武田の領地を巡って激しく争った【天正壬午の乱】では、伊賀衆を率いて勝山城などを守備しています。
青田刈りなどの後方作戦から、大雨に乗じた砦攻めなど、縦横無尽に活躍。
このとき伊賀者を忍び込ませて情報を集めた、ともいわれています。忍者のイメージが強くついてしまうのも致し方ない話ですね。
実際、その後も正成は伊賀衆を率いて行動しています。
城の守備についたこともあれば、天正十二年(1584年)【小牧・長久手の戦い】では伊勢松ヶ島城や蟹江城の奪還に加わり、鉄砲を用いて活躍したこともありました。
忍者というと敵の拠点に忍び込んだり、後方での撹乱をイメージする方も多いかもしれませんが、”隠密任務もこなす傭兵集団”といったほうが実情に近いかもしれませんね。
天正十八年(1590年)【小田原征伐】では鉄砲奉行として従軍し、18もの首を挙げ、なかなかの戦果を誇っています。
この戦に関しては、軍旗に関するこんなエピソードが伝わっています。
正成の使っていた「白地に黒五字」を、家康が使番の旗として使いたいと言ってきたのです。
このため正成は別の旗を使うようになり、服部氏の用いた「源氏車に矢筈」あるいは「矢尻付き三つ矢筈」が替わりの旗にされたと考えられています。
旗の件も含めてなのか、小田原での戦功に対する恩賞として、正成は遠江に領地を与えられました。
家康が関東に入った後はさらに与力と伊賀同心を与えられ、計8,000石の領地持ちに出世。
他の武将や大名たちと比べると控えめな数字に見えますが、徳川家の中では新参者の部類なので、功績と差し引きされた結果でしょうか。
しかし、同心たちは「俺たちは徳川家に仕えたのであり、服部に仕えているわけではない」と考え、反発が絶えなかったという話も伝わっています。
正成の死後もこの件は尾を引き、跡を継いだ息子・正就も悩んだようです。
正就が改易された後、細かく分割され、それぞれに旗本が指揮者としてつけられ、ようやく収まったそうですが……。
毎年11月14日は西念寺で半蔵忌
文禄元年(1592年)、徳川軍は肥前名護屋へ滞陣することになりました。
朝鮮へ出兵する【文禄の役】に備えてのことですが、徳川軍は渡海せず、駐屯していたため、正成も実戦には参加していません。
他にも多くの大名家から来た軍が名護屋に滞在しており、隣には前田軍の陣がありました。
そしてあるとき、徳川軍と前田軍の間で諍いが起きてしまいます。
”戦の準備をしているのに出陣しない”となれば、ストレスも溜まり、そんな連中が衝突するのですから、戦闘寸前にまで発展。
正成が鉄砲を向けて脅した、とか、本多忠勝が出て収まったと言われています。
その後は大きな問題に巻き込まれることなく、亡くなったのが五年後の慶長元年(1597年)。
関ヶ原の前、というか秀吉よりも早く亡くなっているんですね。意外に感じた方も多いのではないでしょうか。
お墓は、東京都新宿区の西念寺にあります。
同寺は正成が信康の菩提を伴うために創建した安養院の後身にあたるとのこと。
創建自体は家康の命を受けてのものだったようですが、前述の信康介錯の話が事実であれば、正成にも何かしらの意図があったことでしょう。
彼の名は、違う形でも残っています。
東京メトロでも有名な「半蔵門駅」であり、そもそもは正成とその一族が江戸城裏手にあたる位置に屋敷をもらったことからきています。
皇居の裏口に当たるため、現在も厳重に警備されていますね。
甲州街道の出発地点でもあったりします。
また、正成にゆかりのある武具も多々伝えられています。
真偽不明な話が混ざっていたり、江戸城の火事や戦時中の空襲で消失してしまったものも多いのですが、西念寺には正成所用とされる槍が伝わっています。「無銘の槍」のほうです。
現存部分の全長は258cm、重さ7.5kg。
穂先が折れてしまい、柄も空襲の被害で焼失してしまったようで、正成が使っていた頃はさらに長く重たかったことでしょう。
当時の槍は6m前後の長さが標準だったそうですので……いやはや。
こうした個人的な戦闘能力の高さゆえに「忍者の長」というイメージが強まったのかもしれません。
前述の通り、毎年11月14日には西念寺で「半蔵忌」の法要が営まれているとのこと。
西念寺は皇居と新宿御苑のおおよそ中間にあり、道中には半蔵門駅もあります。
このエリアをゆっくり散策しながら、正成や江戸初期に思いを馳せてみるのも一興かもしれません。
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長月 七紀・記
【参考】
西念寺(→link)
国史大辞典
『徳川四天王-江戸幕府の功労者たちはどんな人生を送ったのか?』(→amazon)
歴史読本編集部 『伊賀・甲賀 忍びの謎 影の戦士の真実を暴く (新人物文庫)』(→amazon)