大須賀康高

大須賀康高/wikipediaより引用

徳川家

大須賀康高の生涯|高天神城で奮戦した三河の戦国武将 なぜ知名度が低いのか?

2025/06/22

戦国最強の武将と囁かれる本多忠勝をはじめ、井伊直政、榊原康政、酒井忠次の四名は【徳川四天王】と呼ばれたりします。

文字通り、徳川家康の躍進を支えたベスト4というワケですが、徳川には他にも「十六将」とか「二十将」あるいは「二十四将」から「二十八将」なんて顕彰まであったりします。

今回注目したいのは、ベスト16には入れない、されどベスト20以降なら確実に名を連ねるであろう――大須賀康高です。

この大須賀康高、知名度は低いながら、精強な武田軍を相手に奮戦を続け、その功績はベスト16にも負けないものと言えます。

天正17年(1589年)6月23日が命日。

大須賀康高/wikipediaより引用

本稿でその生涯を振り返ってみましょう。

 

四天王の一人・榊原康政は娘婿

大須賀康高の生まれは大永七年(1527年)。

徳川四天王筆頭の酒井忠次とは同い年で、徳川家康から見ると15歳の年長でした。

地元は三河額田郡洞村(愛知県岡崎市)で、前半生においては松平氏の家臣である酒井忠尚に仕えていました。

つまり家康からみると陪臣(家臣の家臣)になりますね。

しかし永禄六年(1563年)に、その酒井忠尚が家康に背いたため、康高は忠尚から離反。

娘婿だった榊原康政とともに、直接、家康の家臣となりました。

これまた四天王の一人・榊原康政が義理の息子だったんですね。

榊原康政/wikipediaより引用

さすが徳川二十神将の一人に数えられるだけあって地縁・血縁はしっかりしている印象。

実際、徳川家の主だった合戦に大体参加しています。

一覧にするとこんな感じです。

・永禄十二年(1569年)掛川城攻め

・元亀元年(1570年)姉川の戦い

・元亀三年(1572年)三方ヶ原の戦い

・天正元年(1573年)長篠城攻め

・天正三年(1575年)長篠の戦い

ご覧の通り、名だたる戦いばかりですね。

上記の戦で目立ったエピソードはありませんが、康高には高天神城周辺での活躍が今に伝わっています。

天正二年(1574年)から始まった、いわゆる【第一次高天神城の戦い】です。

 


高天神城の戦い

高天神城は武田・徳川の境目にあり、絶えず両者の間で激しい攻防線が繰り広げられていました。

当初、大須賀康高は城主の小笠原信興らと共に高天神城を守っていて、このときは家康からの援軍が望めませんでした。

というのも、天正二年はじめに上杉輝虎(上杉謙信)から徳川氏へ

「ウチは西上野から武田領を攻めるんで、織田家や徳川家もよろしく」(超訳)

という連絡が来ており、家康は上杉軍の動きを意識して駿河へ攻め込んでいました。

しかし、武田勝頼がその裏を突くような形で1574年(天正2年)5月、徳川領である遠江へ侵攻してきたのです。

高天神城は”かつて信玄が攻め入って攻略しきれなかった城”でもあります。

代替わりしたばかりの勝頼にとっては「ここを取れば士気が上がるし、自分の能力も証明できる」というところ。

もちろん康高らも譲るわけにはいきませんし、以下の復元図をご覧いただいてご想像通り、

高天神城図photo by お城野郎!

この城も非常に堅強な城として知られていました。

援軍が来ない籠城戦は、希望のない戦いであり、通常ならすぐに落ちてしまう場面です。

しかし彼等は粘ります。

2ヶ月粘って、最終的には開城・降伏を選びましたが、長期間に渡って武田軍を釘付けにしたのですからまずまずの戦果でしょう。

勝頼は康高らを丁重に扱い、徳川方へ帰参することも許しました。

 

横須賀城と高天神六砦

戻ってきた大須賀康高に、家康はさっそく大仕事を命じます。

「高天神城攻略のため、新しく城を築け!」

かくして天正六年(1578年)、康高は【横須賀城】の築城を開始。

並行して高天神城の周辺に「高天神六砦」と呼ばれる砦を築いていました。

家康もやる気満々ですね。

砦の構築には、康高と共に高天神城で籠城していた渥美勝吉・坂部広勝・久世広宣なども一緒でした。

彼らは後に「横須賀衆」と称されることになります。

むろん、そんなことをすれば武田との衝突は時間の問題。

両家の戦いが再開したのは、天正六年(1578年)8月のことでした。

この時は徳川方から高天神城に火を放って戦を仕掛け、武田方が打って出てきた……という展開で、以降、散発的に徳川vs武田の戦闘が続きます。

城下にあった田畑の焼き討ちを行ったり、小さな戦闘が起こったり。

何度かの衝突を経て、徐々に徳川有利な流れに……。

そして天正八年(1580年)、横須賀城が完成すると、徳川家康自らが入城し、周囲の砦へも多くの兵を配置しました。

徳川家康/wikipediaより引用

いわゆる第二次高天神の戦い――いよいよ本気の家康に対し、四方を敵に囲まれていた勝頼は身動きできず、高天神城の武田軍は孤立化します。

ただでさえ、前年に田畑を焼かれて兵糧調達が難しかった上、家康本隊に包囲されてしまっては、よそから運び込んでくることもほぼ不可能。

城内の兵はジリジリと追い詰められ、飢餓でどんどん倒れていきました。

兵糧攻めは攻城戦の常套手段とはいえ、生死をさまよう状況に追い込まれた城方としては、こうなると”一か八か”に賭けるしかありません。

あるいは武士として最期に意地を見せたかったのでしょうか。

天正九年(1581年)3月22日の夜、武田軍の城将・岡部元信が打って出てきました。

岡部元信は、もともと今川義元の家臣で知勇兼備の将として知られており、武田に降ってからも重用されていた名将でした。

大須賀康高らはこれを迎え撃ち、見事に勝利すると、高天神城は落ち、再び徳川方のものとなります。

もちろん家康は大喜び。

康高は一連の手柄を認められ、天正十年(1582年)からは松平氏の名乗りを許されました。

なお、高天神城そのものにスポットを当てた記事が以下にございます。

よろしければご一緒にご覧ください。

高天神城
武田と徳川が激しい争奪戦を繰り広げた高天神城~遠江一の堅城を実際に登ってみた

続きを見る

 

知名度低い理由は何だ?

その後も横須賀城の守りを託された大須賀康高。

本能寺の変後は、武田遺領を巡って徳川・上杉・北条・真田の間で発生した【天正壬午の乱】でも活躍しました。

天正12年(1584年)の【小牧・長久手の戦い】では先鋒、天正13年(1585年)の【上田合戦】では援軍として用いられており、信頼のほどがうかがえます。

小牧・長久手の戦い

『小牧長久手合戦図屏風』/wikipediaより引用

かように、徳川四天王には及ばずながら、戦場で活躍していた康高ですが、後世においては知名度が低めですよね。

一体なぜなのか?

というと、おそらく”家が続かなかった”からだと思われます。

大須賀家が途絶えてしまった理由は二つ。

一つは、康高の亡くなり方です。

天正十七年(1589年)6月23日に亡くなったのですが、横須賀城のすぐ近くにある撰要寺(掛川市)というお寺へ参詣した際に、急病で倒れてそのまま……というものでした。

享年63でしたので、急死するような病気が出てきてもおかしくない年齢ではありますが、当時は物議を醸したかもしれません。

もう一つは、当時、康高のもとには跡を継げる男子がいなかったことです。

康高の娘と榊原康政との間に生まれた孫・忠政がいたため、忠政が母の実家に戻る形で大須賀氏は保たれます。

というと問題なさそうに見えますが、しばらく経って今度は”榊原氏の世継ぎが絶える”という事態に。

仕方がないので、忠政の息子・忠次が榊原を名乗り、家を繋げていくことになりました。

結果として、大須賀氏は榊原氏に吸収されるような形で途絶えることになります。

ビッグネームと近い関係にあったがために、大須賀氏や康高の影が薄くなってしまったんですね。

誰も悪くないだけに、なんともいえない話です。

康高と忠政のお墓は撰要寺にあるそうですが、この顛末を見て

「なんだかややこしいことになっちまったな」

なんて、二人で頭を掻いていたかもしれませんね。

📚 戦国時代|武将・合戦・FAQをまとめた総合ガイド


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【参考】
日本人名大辞典
山下昌也『家康の家臣団 天下を取った戦国最強軍団』(→amazon
戦国合戦史研究会『戦国合戦大事典 (3) 静岡県・愛知県・長野県・新潟県・富山県・石川県』(→amazon

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長月七紀

2013年から歴史ライターとして活動中。 好きな時代は平安~江戸。 「とりあえずざっくりから始めよう」がモットーのゆるライターです。 武将ジャパンでは『その日、歴史が動いた』『日本史オモシロ参考書』『信長公記』などを担当。 最近は「地味な歴史人ほど現代人の参考になるのでは?」と思いながらネタを発掘しています。

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