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【服部半蔵正成】
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信康切腹事件
織田信長と徳川家康の間には【清洲同盟】という強固な結びつきがありました。
家康の長男・松平信康のもとには、信長の娘である徳姫が正室に迎えられるほどでしたが、事件のキッカケはそこから始まります。
信康と徳姫が男児に恵まれず、跡継ぎについて懸念を抱いた築山殿が徳姫と不仲になり、父親の信長へ手紙が送られたのです。
手紙の内容は、夫である信康や姑である築山殿の不審な点を12個も書き連ねた訴状。
しかも「武田に内通している」という、織田や徳川にとっては無視できない非常事態まで記されていました。
むろん信長は大激怒。
家康に対し、信康と築山殿の処分を求めたとされますが、近年では家康派と信康派で分裂してしまった徳川家臣団の内紛という見方もあり、依然としてハッキリした結論は出ていない状況です。
ただし、信康が切腹に追い込まれ、築山殿が討たれたのは間違いなく、この信康の介錯役を命じられたのが服部半蔵正成でした。
当初は渋川四郎右衛門という人物が介錯役でした。
しかし彼は譜代の家臣だったため「三代に渡って仕えてきた家の主に刃は向けられぬ」と言って出奔。
正成に白羽の矢が回ってきたわけですが、正成もまた父の代から仕えている家臣です。
主君の息子に刃を振るうことができず、最終的に天方通経(あまかたみちつね)という人が介錯を行いました。
事の経緯を聞いた家康は「戦場で鬼と言われた正成も、主筋を手にかけることはできないか」と納得したとか。
信康が自刃するまでの経緯や、実際に介錯した人物についても諸説あり、全てが事実とは言い切れません。
例によって「当時の世相や家中の人物評が出た話」として考えると、この時期までに以下のような正成の評価が定着していたのではないでしょうか。
・「鬼」と呼ばれるほど凄まじい戦功を上げていた
・嫡子の介錯を頼まれるほど家康に信頼されていた
・しかし非情な人間ではなかった
なお、松平信康と築山殿については、それぞれの考察記事がありますので、興味を持たれた方はぜひ。
なぜ家康の長男・松平信康は自害へ追い込まれたのか? 謎多き諸説を考察
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家康の正室・築山殿(瀬名姫)はなぜ殺された?家康には重たい女と思われていた?
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安土城での信長接待に同行
前項でも触れた清洲同盟は「信長が死ぬまで続いた同盟」として知られています。
しかし、全く問題がなかったわけではありません。
信康切腹事件はその代表格で、実はその後も両家のトラブルがあり、服部半蔵正成もそのひとつに深く関わっています。
天正八年(1580年)、織田家からの客将と徳川家臣の間で諍いがあり、正成も巻き込まれてしまったのです。
双方に死者が出てしまい、家康としても処分せざるを得ない状況。
しかし何を思ったのか、正成は逃げようとしません。
業を煮やした家康は、正成を無理やり妻子と一緒に逃してやり、別人の首を偽って織田方に提出し、なんとか事を収めています。
その後ほとぼりが冷めた頃に戻ってきたと考えられますが、詳細は不明。
なんとも不可解な話ながら、信長からの追求はなく、双方にとっても無益な争いであったため、穏便に片付けられたのでしょう。
その後も織田・徳川の関係は続き、天正10年(1582年)の甲州征伐でも共闘しています。
武田家は、織田・徳川の命運を左右するほど強大な敵でしたので、武田勝頼を討ち取ったときは大きな節目と考えられたのでしょう。
信長も人心地ついたのか、家康による接待の御礼も兼ねて、安土城での歓待に招待しました。
このとき宴席で出された料理は、まさにフルコースといった様相。
以下の記事でそのときの御膳が再現されていますが、
信長が安土城で家康に振る舞った豪華な食事の中身とは?現代に蘇る信長御膳
続きを見る
当時は貴重な甘いお菓子も出されており、信長の気前の良さがうかがえます。
実はこのとき、正成がお供の一人として同行していました。
ですので、この二年間のどこかで徳川家に帰参していたと考えられますが、めでたい席でも内心は穏やかではなかったかもしれませんね。
しかしその直後、そんな正成の緊張とは比にならない、大事件が勃発します。
【本能寺の変】です。
神君伊賀越え
安土城を訪問した後、家康一行は信長の勧めで上方見物をしていました。
本能寺の変を知ったのは、滞在していた堺を出発した直後のこと。
茶屋四郎次郎清延が夜を日に継いで「光秀謀反」「信長・信忠横死」を知らせてくれたものの、このとき家康一行はたったの数十名しかいません。
光秀の追手にかかれば、ひとたまりもない。
悲観して腹を切ろうとする家康を、茶屋四郎次郎や家臣たちは必死に止めました。
そして京都には入らず、伊賀の山中を通って浜松へ帰ろうという計画が立ちます。
ここで、正成の土地勘が活かされました。
現代でも伊賀周辺は緑豊かな山林であり、440年前ともなればなおさら。当時は在地の豪族や山賊も点在しており、獣道のほうが安全なのではないかというような苦境です。
正成が道案内をし、茶屋四郎次郎が金銭で買収するなどして、家康一行はなんとか伊勢の港までたどり着き、そこからは船で三河へ渡って、難を逃れることができました。
いわゆる【神君伊賀越え】と呼ばれるもので、フィクションでも定番の人気場面ですね。
このとき、家康の帰還に貢献した人々は、後年になって取り立てられたり、特権を与えられたりしています。
正成の交渉によって協力した伊賀・甲賀の土豪たちもその一例でした。
ある意味、就職の斡旋をしたような形ですね。
なお、他にも別行動していた穴山信君が道中で非業の死を遂げたり、神君伊賀越えにはさまざまなドラマがあり、よろしければ関連記事からご参照ください。
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