寛永21年(1644年)7月10日は土井利勝の命日です。
この人の話題となるとどうにもこうにも「ああ、徳川家康の隠し子ね」という展開になりがち。
さらには「親が引き立てたからスゴイように見えているだけで、本人はポンコツ(だったに違いない)」みたいな扱いもされやすいように感じます。
利勝は、決してそうではありません。
当人、かなり優秀であるにもかかわらず、正当な評価がされていないように思えるのです。
では一体どんな人物で、いかなる事績があったのか。
土井利勝の生涯を振り返ってみましょう。

土井利勝/wikipediaより引用
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土井利勝と家康は母方の従兄弟関係
土井利勝の生年は天正元年(1573年)。
実は、徳川家康の従兄弟という血筋です。
家康の母・於大の方(おだいのかた)と、利勝の父親である水野信元がきょうだいだったんですね。
最近の大河ドラマだと『どうする家康』で寺島進さんが水野信元を演じていました。
従兄弟ですから、利勝と家康に似ている面影などがあっても特におかしなことはなく、とにかく天文11年(1543年)生まれの家康と30歳も離れていることが、従兄弟というイメージを湧きにくくさせているのかもしれません。
天正3年、そんな彼らに、ある大きな問題が持ち上がります。
水野信元が武田信玄と通じている――。

近年、武田信玄としてよく採用される肖像画・勝頼の遺品から高野山持明院に寄進された/wikipediaより引用
織田信長に「武田信玄と通じた」という疑いをかけられ、家康は伯父である水野信元を処分せざるを得なくなるのです。
この一件、後に信長は「冤罪だった」と判断し、佐久間信盛への折檻状で事後処理のマズさなどを咎めています。
裏切りなど無かった可能性が高いのですね。
それでも、信元の死により、水野家の所領は末弟の水野忠重に渡されることになりました。
ちなみに、家康の従兄弟として有名な水野勝成は、この忠重の息子です。
利勝と勝成もまた従兄弟同士ということになるのですが、だいぶイメージが違いますな。

水野勝成/wikipediaより引用
鷹狩りに連れて行ったり 秀忠の傅役に任命したり
水野信元に内通疑惑がかけられたとき、息子である土井利勝もまた危険な状況に置かれました。
どうにか命は助けられると、家康の意向で徳川家臣・土井利昌の養子に入ります。
こういう状況のとき、息子も共に処分されたり、寺で出家させられたりするのがセオリーですから、なんだか不自然な状況ではあります。
このあたりから家康は土井利勝を別格扱いし始めます。

徳川家康/wikipediaより引用
鷹狩りに連れて行ったり、天正7年(1579年)に生まれたばかりの三男・徳川秀忠の傅役に任命したり。
「家康の隠し子だから甘いんだな」
そう言われても仕方のない扱いとなっていたのです。
家康は、息子たちの顔について厳しい判断をしたエピソードでも知られますので、もしかして利勝の顔は気に入って甘くなったとか……。
実際、長じた後の利勝は、かなり家康に似ていたと言われます。
顔がほとんど見えない土井利勝の肖像画も、言われてみれば家康に似ている気が……。
秀忠の傅役として充分な働きをしていると見なされたのでしょう。
天正19年(1591年)、数えで19歳となっていた土井利勝は1000石の知行取りにもなりました。
主人の名誉を守る
土井利勝については、若い頃、なかなか肝の据わった話が伝えられています。
文禄4年(1595年)4月、豊臣秀次事件が起きる少し前のこと、秀次が住んでいた聚楽第に徳川秀忠が宿泊していました。

徳川秀忠/wikipediaより引用
秀次が、秀吉との調停を円滑に進めるため、秀忠を利用しようとしたのです。
これを知った徳川方は、大久保忠隣らの主導で秀忠を逃がすことを決め、その護衛として傅役の土井利勝も随行させました。
目的地は、家康の邸もある伏見です。
しかしそこまでの間に都大路を通るか、人目に立たない竹田路の間道を通るかが問題として持ち上がりました。
一見、後者のほうが安全そうに見えるところ、利勝はこう主張します。
「お忍びとはいえ、間道を通って追手に見つかれば臆病者とそしられるでしょう。大路を堂々と歩いたほうがよろしいかと」
これには参加していた皆が同意。
後に家康からも好判断だとして褒められました。
実際に秀忠が伏見へ行ったのは7月なので、この話がどこまで事実かはわかりませんが、利勝の慧眼っぷりが伝わってくる話ではありますね。
大名の仲間入り
土井利勝は家康の期待によく応えたようで、関ヶ原の戦いでも秀忠隊につけられています。
といっても決戦本番には間に合わず大遅刻となりますので、当然、利勝にも戦功はほぼありません。
しかし、なぜか500石加増されました。
まぁ、秀忠の行軍は当初からの予定で、特に大きな間違いはなく、要はあまりにも早く決戦がついてしまった――そんな指摘が妥当なところかもしれません。
その後も慶長7年(1602年)に下総・小見川で1万石与えられたのを皮切りに、どんどん所領を加増されます。
慶長10年(1605年)に秀忠が参内した際にも随行し、朝廷から従五位下・大炊介(おおいのすけ)に任じられました。
大炊介は本来、朝廷の神事や宴会の準備などを行う部署「大炊寮」のナンバー2にあたる官職です。

画像はイメージです(えさし藤原の郷)
もちろん幕臣である利勝が朝廷で働くことはありませんが、大炊寮は天皇や后妃・東宮の食事を提供する”供御所”も管轄していたので、非常に重要な部署といえます。
朝廷から見た利勝が「将軍家にとって欠かせない存在」と見なされたことから、この官職が与えられたのかもしれませんね。
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