慶長五年(1600年)8月1日は【伏見城の戦い】と呼ばれる激戦があった日です。
いわば関ヶ原の戦いの前哨戦とも言えるこの合戦。
石田三成ら西軍が勝利し、家康配下の鳥居元忠が敗死しました。

鳥居元忠/wikimedia commons
その結果や、後の展開に与えた影響を振り返ってみましょう。
三成を隠居に追い込んだ家康
まずは当時の状況をざっくり見てみますと。
【文禄・慶長の役】やそれ以前のアレコレで福島正則や加藤清正などから恨みを買いまくっていた石田三成。

石田三成/wikipediaより引用
自ら火に油を注ぐような言動をしていたため、ますます関係がこじれていました。
豊臣秀吉や前田利家の存命中は何とか火種がくすぶる程度で済んでいたのですが、二人が亡くなると一気に着火し、三成が福島正則らに襲撃され(かけ)るという事件が起きてしまいます。
これを口実に家康が「石田殿はちょっと引っ込んでいたほうがよかろう」(超訳)といって、三成を居城・佐和山(現・滋賀県彦根市)へ半ば隠居させてしまいました。
伏見城に元忠を置いて会津へ
同時に家康は、神指城を整備するなどして戦の準備にとりかかる様子の上杉家へプレッシャーをかけます。
すると同家の重臣・直江兼続から一通のお手紙が届きました。

直江兼続/wikipediaより引用
「武家が武装を整えるのは当然ですし、その他も領民の至便を思ってやっていることですので、ウチの殿様はちっとも悪くありません♪ アタマおかしいのはそっちじゃないですかwww」
このナメくさった手紙は、いわゆる【直江状】と呼ばれ、関ヶ原のキッカケとして知られますね。
文面の詳細等は以下の記事をご覧ください。
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直江状|家康を激怒させた書状には何が書かれていた?関ヶ原を誘発した手紙
続きを見る
ともかく上杉家から喧嘩を売られたも同然の徳川家康は軍勢を引き連れ、上杉家の領地・会津へ向かいます。
俗に【上杉征伐】と呼ばれる軍事行動ですね。
むろん全軍を東北に派遣させるワケにもいきません。
特に近畿は、豊臣恩顧の大名や武将も多く、政情不安定といえるエリアですから、防御の楔を打ち込んでおかねばならない。
そこで、かつて秀吉が隠居所にしていた伏見城に置いといたのが、信頼できる家臣・鳥居元忠でした。
「1,800vs40,000」の絶望的な籠城戦
この、鳥居元忠が守る伏見城へ、挙兵した石田三成が襲いかかります。
【伏見城の戦い】と呼ばれ、戦いの概要は以下の通り。
元忠の率いる伏見城の防御は兵1,800。
対する西軍は、宇喜多秀家・小早川秀秋など、西軍の主要どころがおり、約40,000にも達しておりました。

小早川秀秋(左)と宇喜多秀家/wikipediaより引用
単純計算20倍。
もはや計算するのさえ無意味なほど圧倒的兵力の差です。
「関ヶ原の戦いは、老練な家康が、キレる三成を手玉にとって起こさせた合戦」
フィクションでは時にそんな描かれ方をされますが、家康にだってそんな余裕はなかったでしょう。
なんせ福島正則や黒田長政など豊臣恩顧の武将たちがいつ西軍に戻るかわかりません。だからこそ三成が挙兵してもすぐに上方へは向かわず、江戸城でしばし様子を見ていたほどです。
それだけに伏見城へ楔を差し込んでおいた家康の判断は間違ってはなかったのでしょう。
目と鼻の先にこんな重要な位置かつ小勢の城があれば、三成でなくても「落城させて仲間の士気をあげるにはちょうどよい」と考えるでしょう。
しかし……。
伝達の行き違いで島津は門前払い
守将の鳥居元忠は、少年の頃から家康に仕えてきた忠臣です。
東軍のため、子孫のため。
「ワシは一人で充分ですから、殿は一人でも多く東北へお連れください。つけていただいたあの将やこの将も不要です」(意訳)とまで言っていたとか。
さすがに家康も大切な部下をできれば死なせたくはなく、実際は兵を置いています。1,800ですが。
さらに、偶然、京都周辺にいた島津義弘に
「伏見城に入って鳥居を助けてもらえないかね」
と援軍を頼みましたが、これは城側に伝わっておらず門前払いされてしまいます。

島津義弘/wikipediaより引用
鳥居元忠としては、心から信頼できる徳川の将兵だけで戦うことを望んだ――という見方もあります。
いずれにせよ、門前払いされた義弘は、三成から執拗な誘いもあって西軍へ。
まぁ、薩摩としては結果的に島津義弘が関ヶ原の敗戦後に【島津の退き口】を完遂させ、家名を上げると共に御家も残すのですから結果論から言えば成功でした。しかも幕末で借りを返すような展開になりますし。
時間稼ぎこそが殊勲だった
元忠は大軍を相手に実によく粘りました。
小勢かつ戦闘向きではない伏見城で実に10日以上も守ってみせるのです。
そもそも伏見城は「隠居所」として作ったもので、戦をするには圧倒的に不利。
4万という大軍相手にわずかな兵で持ち堪えた鳥居元忠の忠義は、後世にも大きく伝わります。
13日間も戦い粘り、最終的には鈴木重朝(雑賀孫市)と戦い、討死したのです(自害後に介錯されたとも)。
西軍としてもこのタイムロスは手痛く、しかも次に攻めたのが細川藤孝(細川幽斎)の守っていた田辺城でした。

細川藤孝/wikipediaより引用
こちらは前哨戦どころか関ヶ原本戦の一週間前まで続き、結果として本戦における西軍の手勢を大幅に減らしてしまいます。
「東軍側の根性パネェ」と見るべきか。
「西軍の戦略がお粗末なの?」と見るべきか。
西軍も他の城はスムーズに落としているのですが、伏見城と田辺城については「試合に勝って勝負に負けた」状態ですよね。
こうしてモタつきながら進む西軍の動向を睨みつつ、家康も江戸で出陣のタイミングを図っていたのでした。
ちなみに家康はその後、織田信長の嫡孫・三法師(織田秀信)のいる岐阜城を、福島正則らに攻撃させ、そこから関ヶ原の戦いへと進んでいきます(加藤清正は九州で西軍と戦う)。
詳細は【岐阜城の戦い】の記事へ。
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【参考】
国史大辞典
笠谷和比古『関ヶ原合戦と大坂の陣 (戦争の日本史 17)』(→amazon)
峰岸純夫/片桐昭彦『戦国武将合戦事典』(→amazon)
伏見城の戦い/Wikipedia







