豊臣秀吉(左)と徳川家康、両雄の対決/wikipediaより引用

なぜ伏見城は秀吉と家康から重要視されたのか? 都と大坂を繋ぐ拠点の存在感

2025/04/27

豊臣秀吉の城といえば大坂城。

徳川家康の城といえば江戸城。

では秀吉も家康も、共に重要視した城と言えば?

当然その候補はいくつかありますが、実際に政治の舞台で大活躍したのが伏見城ですね。

え?ずいぶんと地味な城だな?と思われるかもしれませんが、伏見城を舐めてはいけません。

なにせ秀吉は晩年をここで過ごして亡くなっているばかりか、関ヶ原の戦い前哨戦では鳥居元忠が籠城して西軍相手に壮絶な討死を果たし、その後、政権を握る徳川家康は、この城で将軍宣下を受けたのです。

そればかりか徳川秀忠や徳川家光も先例にならって伏見城で将軍宣下を受けるなど、戦国末期から江戸初期にかけて非常に重要な拠点となっていました。

では一体なぜ伏見城にそこまでの権威権力が集中したのか?

1594年4月27日(文禄3年3月7日)は、その普請が開始された日。

徳川時代の伏見城/wikipediaより引用

秀吉~家康の事績を追いながら、当時を振り返ってみましょう。

 

茶々の懐妊で政権の計画が全て狂う

そもそも豊臣秀吉は、京都の伏見に自身の隠居屋敷を作る予定でした。

関白の位を甥の豊臣秀次に譲り、朝鮮出兵を始め、

「大金ぶっ込んで名護屋城を築城したばかりじゃないのか?」

というツッコミも入れたくなりますが、天下人の財布はこれしきのことでは揺らぎません。

隠居屋敷は当初、京都の南方、今では埋め立てられて存在しない「巨椋池(おぐらいけ)」を臨む指月(しげつ)の丘に定められました。

秀吉は、城郭ではなく、本当に隠居屋敷を造ろうとしていたらしく、平安時代から景観の素晴らしさを歌にも詠まれた指月を指定したのです。

ゆえに軍事的な意味は全くありません。

しかしこの頃、秀吉の老後計画をすべてひっくり返すような出来事が起こります。

側室の茶々がまたしても懐妊し、お拾(おひろい・後の豊臣秀頼)を産んだのです。

豊臣秀頼/wikipediaより引用

秀吉に子が産まれたことで、「ぜ~んぶ秀次に譲ってワシゃ隠居するわ!」宣言は、実質、撤回されてゆくことになりました。

 


引退撤回! 新たに城を築くんじゃ

豊臣家の持つ各城の役割は、まずは中心に「大坂城」があります。

さらにはプライベートな居城として、京都のど真ん中に「聚楽第(じゅらくだい)」を築城。

豊臣政権の城として、朝廷との政治の場にもしました。

お拾が生まれる前は、大坂の豊臣家も京都の豊臣政権も関白の秀次に任せ、秀吉自身は「伏見」で気ままな隠居生活という計画だったのです。

しかし事態は一変、秀吉は宣言します。

「大坂城は、お拾に譲る!」

「え? え? オレの立場は?」

動揺したのは秀次です。

豊臣秀次/wikipediaより引用

明らかにその場繋ぎの中継ぎ投手に降格され、本人は絶望したことでしょう。

しかし、秀吉にしてみれば「ワシの子がワシの大坂城を継いで何が悪い! 生前贈与じゃ!」と、自分が生きているうちに筋道を作っておかなければならないと考えます。

同様に、お拾のためには豊臣政権をより一層盤石なものにしておかなくてはなりません。

そこで秀吉は、引退撤回宣言を内外に知らしめるよう、伏見で築城を開始。

惣無事令が出され、天下統一されているとはいえ、現役復帰するからには天下人にふさわしい「城郭」を目論みました。

かくして伏見の隠居屋敷は、当初の計画を変更して巨大城郭へと変貌を遂げていくこととなるのです。

 

指月伏見城

当時、築城された最初の伏見城を第1期として「指月伏見城(しげつふしみじょう)」と呼びます。

なぜ1期としたかと申しますと、伏見城はその後2度、築城されるからです。

秀吉の第1期築城時には、人夫25万人が駆り出され、約7ヶ月で完成。

このとき茶々が第一子(鶴松)を生んだ淀城(この城の名から茶々は「淀君」と呼ばれる)は廃城にされ、天守や櫓、門が伏見城に移築されました。

大坂城で生まれたお拾も、12月には「指月伏見城」に入城し、この後、秀吉が死ぬまで同城で共に過ごします。

また、指月伏見城の築城と同時に、この付近の地形を永遠に変えてしまう大土木工事も始まりました。

当時この付近には巨大な巨椋池(おぐらいけ)が存在し、宇治川が上流の琵琶湖と結び、巨椋池から下流は淀川が流れて、大坂そして瀬戸内海を結んでいます。

秀吉はこの巨椋池に手を加えて、指月伏見城を戦略要地にするのです。

まず初めに「槙島堤(まきしまつつみ)」を築き、宇治川の流れを小椋池から切り離して、指月伏見城の水堀になるように城の外郭まで流路を引っ張り、さらには港も造りました。

これにより琵琶湖からやってきた船は必ず伏見城下を通過しなければならなくなります。

京都へ運び入れる物資も伏見城下の港で荷下ろしをしなければならないので、伏見城一つで水運をコントロールすることが可能になります。

伏見城マップ

©2016Google,ZENRINより引用

秀吉は、さらに巨椋池に浮かぶ島や浅瀬を埋め立て、それらをつなぎ合わせて「小倉堤」を築きます。

この付近には大和国(奈良県)と京都を結ぶ「大和街道」が通っていました。

南の大和国から京都方面に向かう大和街道は、巨椋池にぶつかると、一旦、東に折れて宇治平等院などがある方面から宇治川に架かる橋を渡り、小椋池を北へ回り込むように伏見へ向かい、京都に至ります。

しかし「槙島堤」と「小倉堤」、いわゆる「太閤堤」ができたことで堤上を歩けるようになり、巨椋池を避けることなく南から一直線に北へ進み、指月伏見城の正面で宇治川に架かる橋(豊後橋)を渡るルートに変更されました。

大和街道が短縮されて利便性が増しただけでなく、陸地を通るすべての人や物の流れを指月伏見城下でコントロールすることを可能にします。

巨大な巨椋池で京都へ向かう水陸交通を一手にコントロールする――そんな役割を持つ指月伏見城となったのです。

こうなると、単なる隠居所ではありません。

京都と琵琶湖-大坂間の交通を支配する最前線の城と呼べるレベルの築城と新都市開発なんですな。

ちなみに宇治川を挟んだ伏見城の対岸にも「向島城」という、その名もズバリな城が同時に築城されます。

川の両岸に築城して宇治川を通る船や大和街道を行き交う者に威圧をかけることができる――誰もが一度は夢想するも、両岸に築城するお金の余裕がないので誰もやらない城郭戦略です。

豊臣秀頼の誕生により、秀吉が半ば隠居を撤回して本気で築城したのが、この「指月伏見城」だったのです。

 

城の威容にダメージを受けたのは秀次

指月伏見城の存在は政治的デメリットもありました。

豊臣政権の政治を一層ややこしくして、関白・豊臣秀次のメンタルを崩壊に追い込んだのです。

これまで天下の政治については「聚楽第」の秀次で事が済みましたが、お拾の誕生にやる気を出した「指月伏見城」の秀吉にもお伺いを立てねばならない。

また「豊臣家のことは大坂城で」と言われても、肝心のお拾はまだ幼児でお話になりません。

結局、相手は秀吉となり、伏見城に出向く必要が出てきたのです。

豊臣秀吉/wikipediaより引用

なにしろ秀吉自らが命じた唐入りも未だ道半ば。ノンキな隠居生活というわけにいかないのは一目瞭然です。

そこで指月伏見城が権力の中枢となり、諸大名も続々と伏見城下に屋敷を立てることになります。

秀次事件が起きたのは、まさしくその最中、1595年のことでした。

記録が断片的にしか残っておらず詳細は不明ですが、秀次は高野山で出家を命じられた後に切腹。

その後、一族郎等が処刑されるという、秀吉の闇を感じさせる事件でした。

京都洛中の豪華絢爛な聚楽第は、もともと何もなかったようにすべて破壊され、埋めてしまうよう命じられ……秀吉の闇により聚楽第は現代の城マニアにとっても永遠に幻となってしまったのです。

ともかく豊臣政権の城は、これで「聚楽第」から「伏見城」へと移りました。

 


木幡山伏見城

秀次自害の翌1596年、慶長伏見の巨大地震が起こります。

謹慎中の加藤清正が地震直後に誰よりも早く駆けつけた――という逸話は皆さんご存知のところでしょうか。

地震加藤と呼ばれる逸話を描いた浮世絵/wikipediaより引用

マグニチュード7超と推定されるこの大地震により、指月伏見城は倒壊し、秀吉一家は避難を余儀なくされました。

秀吉は、伏見の地に再度、築城を命じます。

今度は指月から少し北東に行った木幡山(こわたやま)へ。これを「木幡山伏見城」と呼びます。

秀吉はこの木幡山伏見城を地震から約1年弱で再建。

不幸中の幸いで、地震後に火災は起こらなかったので、指月伏見城の資材を転用することができました。

また聚楽第も取り壊し中でしたので、大量の資材がリサイクル可能であり、とにかくスケジュールが早かった伏見城再建の裏には秀次事件があったんですな。

木幡山は小高い山です。

指月に隠居所を定め、そして指月に隠居所を建てる段階から、辺り一帯を見渡せるこの木幡山の存在は懸念事項だったようです。

木幡山伏見城の築城があまりにも早かった理由の一つに、もともと指月伏見城を築城する際に、木幡山にも既に出丸が築かれて整備されていたという説もあります。

しかし軍事的観点でもって高地に城を築くのは、京都周辺の畿内では既に数々の戦で否定され、もはや時代遅れになっていました。

応仁の乱以後、京都防衛のために、京都を取り巻く山中に「中尾城」や「将軍山城」などが築かれましたが、すべて防衛失敗に終わっているのです。

たとえば京都を支配下に置いた織田信長は、京都に通じる峠に「宇佐山城」を築きましたが、救援に遅れて城主の森可成を討死させてしまいました(浅井・朝倉の挙兵が突然だったこともありますが……)。

森可成/wikipediaより引用

 

軍事的拠点としても重要に

一方、平地に築いた城は実践でも十分に機能しております。

それが坂本城です。

信長が比叡山を焼き討ちにして、高所の脅威を取り除いた後に定めた京都防衛の要。

明智光秀の居城として有名な琵琶湖畔の拠点で、周囲には港やそれに付随する商業地、そして比叡山を経由して今日に至る街道を支配できる要衝でした。

坂本城は、仮に陸地を包囲されても、琵琶湖の水運を利用した後詰めが可能という、完璧な防御のハーモニーだったのです。

坂本城から移設されたと伝わる西教寺の総門(左)

このように人や物の流れを支配し、一点でコントロールするには、港や街道筋など物流の拠点付近に「城下町ごと」押さえるのが重要。

逆に、それさえ押さえてしまえば、敵対勢力が木幡山に登る前に容易に察知・撃退できますし、包囲されても水上からの後詰めが期待できます。

宇治川の流れを城の外郭まで引っ張り、木幡山方面に回り込んでいた大和街道を、指月伏見城の正面を通過するように道を差し替えた最大の理由はここにあるでしょう。

秀吉は一見不利と思われる地形であっても、大規模に道路や河川の流路を改めることで、人工的に「要衝」を作り出すことを可能にしました。まさに戦国のデペロッパーですね。

そう考えると指月伏見城の位置は軍事的にも決して間違ってはいないのです。

と、秀吉の指月伏見城を擁護してみましたが、最初の伏見城が木幡山ではなく、なぜ指月だったのかという真相は正直よく分かっていません。

しかも今回、木幡山に伏見城を移転する理由も全く軍事的な観点からではなく、余震が続く中で、高台の方が地震の時に安心という観点からの移転でした。

大砲が本格的に実践運用されていない秀吉の時代(大砲の本格運用は朝鮮出兵後)には、指月より高台の木幡山の方が軍事的に優れている理由はどこにもないのです。

結局、木幡山伏見城は秀吉の最期の城となります。

秀吉はこの城で死に、秀頼は大坂城に戻るのでした。

その後、伏見城には五大老の一人・徳川家康が入城し、豊臣政権の城として機能します。

しかし関ヶ原の戦いの前哨戦で、西軍の猛攻により、木幡山伏見城は落城。

会津の上杉征伐に向かった家康の城代として入城していた鳥居元忠は壮絶な死を遂げます。

鳥居元忠/wikipediaより引用

どんなに立派な巨大城郭であっても後詰がなく孤立状態では勝てないのです。

 


家康に続き秀忠・家光が征夷大将軍に

関ヶ原の戦い以後、豊臣政権を完全に牛耳った徳川家康は、徐々に武家政権、そして徳川政権へと移行させます。

その舞台として必要だったのが、伏見城でした。

西軍の猛攻で落城した木幡山伏見城を家康が再建。

現在、縄張りがハッキリ分かっているのはこの第3期の伏見城です。

その後、家康はこの木幡山伏見城で征夷大将軍になります。

徳川秀忠や徳川家光も、この例にならって木幡山伏見城で将軍の宣下を受けますが、政治の舞台は再建された「二条城」に徐々に移され、伏見城は廃城となりました。

伏見城は単なる「戦の城」ではなく「政治の場」として、そして豊臣政権から徳川政権へ移る際にも重要な意味を持つ城だったのです。

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お城野郎!

2012年11月11日に開催された『第一回城郭検定』で最上位に合格(当時は2級)。 現存十二天守からフェイクな城まで、お城記事を中心に合戦の分析までこなす。 特技は妄想力を発動することにより脳内に城郭を再現できること。

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