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【戸田康光】
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今川から織田へ急遽転換
天文十六年(1547年)8月。
今川義元の命で、当時の家康(竹千代)を岡崎から駿府へ送り届ける役目をになった戸田康光。
老津の浜(豊橋鉄道渥美線・老津駅付近)から海路で駿府へ向かう予定でしたが、康光は駿府とは真逆の尾張へ船を向かわせました。
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こうして家康は信長と出会い、人質時代を経て後の清洲同盟に繋がっていくわけですが、今川という強大な大名を裏切った康光はどうなったのか?
当然、義元は大激怒!
同年9月、戸田氏の本拠・田原城へ兵を差し向けました。
康光は嫡子・尭光とともに頑張りましたが、あえなく敗北。9月5日に戸田氏は滅びてしまいます。
竹千代を織田氏へ送ってから、わずか一月ほどのことでした。
それにしても今川を裏切れば、どれだけ危険か、康光が理解できないはずはありません。
なのになぜ、そんな真似をしたのか?
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広忠が織田に差し出した!?
戸田康光が今川を裏切った理由。
これまでは「密かに織田家へ通じていて、金で売り渡した」と語られてきました。
しかし、その金額が永楽銭千貫とか五百貫など、松平の跡取りを売るにしてはあまりに小さく、疑問視もされています。
近年では以下のような指摘もあります。
◆人質の提出先を入れ替えたのではなく、岡崎城が織田軍に攻め落とされたので、広忠が織田家に家康を差し出した
現時点では「今後の研究次第」というところでしょうか。
ちなみに、戸田氏の血筋は残っています。
康光の次男であつ戸田宣光が滅亡時に今川についていたためです。彼の子孫がのちに徳川氏に仕え、戸田氏の宗家として扱われました。
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また、康光の弟・戸田光忠の系統も残っています。
光忠は田原城が攻められた際に脱出し、その後、松平家に仕えて、田原城を取り戻したとか。
こちらは支流ではありますが、田原戸田家として続いています。
康光本人は滅ぼされましたが、家が残ったのは本望と言えるかもしれません。
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長月 七紀・記
【参考】
『国史大辞典』
『日本人名大辞典』(→amazon)
戦国合戦史研究会『戦国合戦大事典(3)』(→amazon)