大久保忠世

大久保忠世/wikipediaより引用

徳川家

大久保忠世の生涯|家康や信長に褒められた勇猛果敢な戦いぶりとは?

2025/04/27

徳川家康の側にいて、天下人への道を大いに補佐したとされる徳川四天王。

酒井忠次、本多忠勝、榊原康政、井伊直政たち四名を指しますが、彼らに引けを取ることなく活躍しながら、知名度はいまいち低い武将がいます。

大久保忠世(おおくぼ ただよ)です。

大河ドラマ『どうする家康』では小手伸也(こてしんや)さんが演じ、色男っぷりをアピールしていましたね。

そのせいか、劇中ではどことなくファニーに見えますが、実際は勇猛果敢な戦いぶりと根性が売りという印象。

いかにも三河武士の代表といった存在ながら、その子孫はトラブルから一時は改易という劇的な展開も迎えてしまう。

大久保忠世/wikipediaより引用

大久保忠世の生涯を振り返ってみましょう。

 

蟹江七本槍

大久保忠世は天文元年(1532年)、徳川家臣・大久保忠員(ただかず)の長男として生まれました。

父は大久保氏の嫡流ではありませんでしたが、代々の活躍によって、本家に勝るとも劣らない存在感を発揮していた家です。

忠世は家康の父・松平広忠に仕え、その流れで家康にも仕えるようになり、永禄年間の末期には、部将としての立場を確立できていたと思われます。

初陣は天文15年(1546年)の上野城(豊田市)攻め。

武名を上げたのは、弘治(1555年)の蟹江城(愛知県海部郡)攻めです。

織田方の拠点・蟹江城を今川軍が攻めた戦いで、当時の松平家は家康(竹千代)が今川氏のもとに預けられ、実質的には家臣のような状態でした。

竹千代(少年期の徳川家康)と今川義元像

良い働きをしておかなければ、主人の身や待遇悪化も危ぶまれる――そんな場面であり、忠世たち徳川家臣団は今川軍の先鋒として織田軍と戦い、落城に追い込んでいます。

その武功から、忠世は弟・忠佐らとともに”蟹江七本槍”と称賛されました。

 


三方ヶ原の戦い

その後の家康は、永禄3年(1560年)5月19日に桶狭間の戦いに参戦し、今川義元が討死すると翌永禄4年には今川家と敵対。

織田と同盟を結んで、三河の支配に努めます。

当時はまだ家康の率いる安祥松平家は確固たる地位を築いておらず、そのため永禄7年(1564年)には三河一向一揆(三河一揆)なども勃発しました。

こうした一連の争乱を平定すると、今度は遠江侵攻で今川家を滅亡に追い込むわけですが、この一件で徳川軍は、甲斐の虎を敵に回してしまいます。

そう、武田信玄です。

徳川家康は、今川氏真を討ち取るどころか、妻の早川殿と共に庇護して北条と勝手に和睦、信玄の怒りを買ったのです。

近年、武田信玄としてよく採用される肖像画・勝頼の遺品から高野山持明院に寄進された/wikipediaより引用

そして敵対した武田軍と迎えたのが、元亀3年(1572年)12月【三方ヶ原の戦い】でした。

ご存知、徳川軍が武田軍に完膚なきまでの敗北を喫し、家康が命からがら浜松城へ逃げ帰った合戦。

ドラマでは夏目広次(夏目吉信)が身代わりになるエピソードが注目されましたが、他の徳川家臣たちもそれぞれの方法で、武田軍の士気をくじいたり、味方を鼓舞するために動いていたとされます。

四天王筆頭・酒井忠次の「酒井の太鼓」などが有名で、大久保忠世にも豪胆な逸話が残されています。

味方が逃げ帰ってきた後、天野康景と共に武田軍の陣へ向かい、夜間に鉄砲を撃ちかけて散々に混乱させたというのです。

といっても、この話は『三河物語』を出典とする逸話ですので、信憑性は怪しいところ。

著者は彼の弟・大久保忠教ともされていますので、兄の活躍が誇らしすぎて、ついつい話を盛ってしまった可能性もあるでしょう。

大久保忠教/wikipediaより引用

他にも天正元年(1574年)、武田軍を相手にした犬居城攻めでは、崖下に落とされながらも這い上がって再度戦線に加わり、敵兵を斬った……なんて話まであります。

「転んでもただでは起きない」というか、話が盛られていたとしても、粘り強さと闘志は間違いないのかなと感じますね。

そして極めつけは織田信長に褒められた一件です。

 

長篠の戦い

天正3年(1575年)5月に【長篠の戦い】が勃発。

これまたご存知、武田軍と織田徳川連合軍による合戦であり、今度は信長と家康らが勝頼率いる武田軍を散々に打ちのめしました。

長篠合戦図屏風より/wikipediaより引用

長篠の戦いといえば、少し前までは【鉄砲の三段撃ち】が日本中に知られるような有名エピソードでしたが、今では創作だとしてほぼ認定された感もありますよね。

大久保忠世は、弟の大久保忠佐や与力たちと共に戦っていたところ、織田信長の目に留まり称賛されたという話があります。

「あの敵について離れぬ戦いぶり、まるで良い膏薬(こうやく・塗り薬)のような侍だ」

よほど忠世たちの戦ぶりが気に入ったのでしょう。

わざわざ家康へ使者を出してその名を尋ね、「家康のほうが、家臣を育てる能力に優れている」と感じたとか。

確かに信長は、人を育て上げるというより、優れた人物を見出すことが得意で、家康は手元にいる人物をじっくり育て上げる印象がありますよね。

まぁ、大久保忠世と家康をダブルで持ち上げている感も相当なものですが……いずれにせよ信長から認められていた可能性は否定できず、家康からの信頼も上々といったところでしょうか。

 

二俣城(浜松市)の城主に

長篠の戦いから少し経過した天正3年(1575年)12月、忠世は二俣城(浜松市)の城主を任されました。

この城は、当時の徳川にとって最重要拠点の一つとも言えます。

以下の地図をご覧いただければ一目瞭然なように、

信濃(長野県)からの進路にばっちり立ち塞がっているんですね。

言わずもがな武田家に対する押さえです。

地図を拡大していただくと明らかになりますが、蛇行する天竜川を背にして建っており、天然の要害といった佇まいが凄まじい。

長篠の戦いで、信玄以来の重臣を数多く失った武田勝頼。

それでもすぐに滅びるほど武田家は脆弱ではありませんでしたが、7年後の天正10年(1582年)2月、織田信忠率いる織田軍と呼応して徳川軍が武田領へ攻め込むと、穴山信君(穴山梅雪)や小山田信茂などの裏切りもあり、ついに滅亡へ追い込まれます。

穴山信君/wikipediaより引用

大久保忠世もこの戦いで武功を挙げ、いよいよ信長の天下!というところで急転直下の大事件が起きました。

天正10年(1582年)6月、本能寺の変です。

このとき徳川家康や穴山信君が共に堺に居て、その後【神君伊賀越え】で家康が無事に帰還したのに対し、信君が野盗に殺されるのは有名な話ですね。

大久保忠世が力を発揮するのは、その後ほどなくして起きた【天正壬午の乱】です。

 


天正壬午の乱

天正壬午の乱とは、本能寺の変により空白地帯となった旧武田領を巡り、徳川・上杉・北条・真田の間で起きた争乱です。

家康が旧武田領に進出すると、大久保忠世は小諸城(小諸市)に入り、戦略を言上しました。

「諏訪頼忠を味方につければ、小笠原氏などもこちらにつくでしょう」

「また、依田氏に本領を安堵して先手を任せるのが良いでしょう」

諏訪頼忠は、その名の通り諏訪神社の神官を務めてきた諏訪氏の人です。

諏訪大社下社春宮鳥居前

諏訪氏は神職と武士を兼ね備えた特殊な家柄であり、諏訪神社の祭神・建御名方(タケミナカタ)が武神的な性格を持つことから、地元豪族の代表者のような面も持っていました。

こういった諏訪の事情を有利に使おうという狙いのものだったと思われます。

依田氏は、信玄の時代までは武田氏の傘下にあった家。

この時点の当主・依田康国も武田氏へ人質に行っていたことがありました。

康国は天正10年当時、まだ10代前半の少年でもあったため、徳川氏が後ろ盾につく旨を表明すれば、味方につけることも容易だと思ったのでしょう。

この二つの発言は両方とも家康に容れられ、康国の監視は大久保忠世に任されました。

また、徳川氏に従うことになった武田旧臣の本領安堵についても、忠世が受け持っています。

この辺りから忠世は、家臣たちの仲立ちや、仲裁役なども務める存在となっていったようです。

一例が井伊直政とのエピソードでしょうか。

 

忠世の人柄が見える直政や数正

家臣団で緩衝材の役目も果たした大久保忠世――最も著名なエピソードが、天正壬午の乱の際に、井伊直政をたしなめた話でしょう。

このとき、陣中で食事を共にしようと、忠世は直政を自分の陣幕へ招きました。

井伊直政/wikipediaより引用

戦の最中ですので、食事は極めて質素なもの。芋の葉や茎を煮て、味噌で味をつけた芋汁だったそうです。

他の武将が食べる中、直政があまり箸を進めないので、忠世が不思議に思って尋ねると、直政は

「醤油はありませんか」

と言ったのだとか。

陣中で調味料の選り好みをするのか――他の武将たちが、そう直政を非難する中、忠世はこのように訓戒したと伝わります。

「このようなものですら、兵や農民の口には入らないこともある。この芋汁の味を忘れてはならないぞ」

慈愛の心がうかがえる言葉ですが、直政は部下に厳しいことで有名な人ですので、そのままの意味では伝わらなかったのかもしれませんね。

 


石川数正が秀吉のもとへ

また、小諸城を預かっていた期間には、こんなこともありました。

天正十三年(1585年)に上田城を攻めていた頃のこと。

幼き頃から家康と共にしていた石川数正が出奔して豊臣秀吉のもとに向かうという、徳川家を揺るがすような大事件があり、その対応のため、忠世が家康に呼び出されました。

豊臣秀吉(右)のもとへ走った石川数正/wikipediaより引用

しかし、最前線に等しい小諸城の守将を空席にしておくわけにはいきません。

そこで忠世は弟の忠教を呼び、こう言い残したとされます。

「私はこの地にやってきて以来、家康様に命を捧げた。この命をお前に与えるので、代わりにこの城を守ってくれ」

「お前も同じように命を差し出せ」と言わないあたりに、忠世の人柄がうかがえますね。

幸い、忠教が命を懸けるような事態は発生しませんでした。

 

小田原に石高4万5000石を得るが……

家康も、大久保忠世の忠義や仕事ぶりには一目置いていました。

天正18年(1590年)の小田原征伐後に家康が関東へ移った後、秀吉の意向もあって、忠世は後北条氏が去った後の小田原城を与えられました。

小田原城

石高は4万5000石――徳川家臣の中で井伊直政・本多忠勝・榊原康政に継ぐ四番目の大きさです。

“徳川四天王”という看板ブランドがないため、知名度では落ちる忠世ですが、その活躍や重要度では引けを取らなかったと言えるでしょう。

その後は大きな事件に巻き込まれることなく、文禄3年(1594年)9月15日に天寿を全うしました。

享年63。

家督は嫡子・大久保忠隣(ただちか)に受け継がれ、幕府でも重い立場になりました。

忠隣は小姓として家康の側近く仕えていたため、家柄や父の実績、そして本人も主君の覚えがめでたい状態でしたので、納得の出世です。

しかし、彼が京都へキリシタンの取り調べに行っている間、与力である大久保長安の不正が発覚し、連座する形で改易になってしまいます。

通称【大久保長安事件】とされているものです。

※以下は「大久保長安と事件」の関連記事となります

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長安が亡くなった後に不正に貯めたと思しき財産が見つかったというもので、実態は謎多き事件ですが、長安の息子たちは全員切腹を命じられ、断絶するという厳しい処分が下されています。

忠隣の権勢を削ぐための陰謀だったのでしょうか。

忠隣は井伊直孝の下に預けられるも、将軍家から許されることはなく、出家したといいます。

しかし、その孫であり、忠世にとっての曾孫である大久保忠職が存続を許されたので、忠世も草葉の陰で泣いても、号泣するまでには至らなかったことでしょう。

📚 戦国時代|武将・合戦・FAQをまとめた総合ガイド


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【参考】
日本人名大辞典
煎本増夫『徳川家康家臣団の辞典』(→amazon
『家康の家臣団 天下を取った戦国最強軍団』(→amazon

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長月七紀

2013年から歴史ライターとして活動中。 好きな時代は平安~江戸。 「とりあえずざっくりから始めよう」がモットーのゆるライターです。 武将ジャパンでは『その日、歴史が動いた』『日本史オモシロ参考書』『信長公記』などを担当。 最近は「地味な歴史人ほど現代人の参考になるのでは?」と思いながらネタを発掘しています。

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