1613年11月9日(慶長18年9月27日)は大久保忠佐(ただすけ)の命日です。
大河ドラマ『どうする家康』で小手慎也さんが演じてた人だよね……というのは惜しい!
それは大久保忠世(ただよ)であり、忠佐はその弟となります。
実はこの大久保忠佐も、徳川十六神将の一人に数えられる功臣。
以下のように有名どころがズラリと並ぶのですから、
忠佐もまた徳川家康を天下人に押し上げた一人と言えるでしょう。
では当人には一体どんな活躍があったのか?
大久保忠佐の生涯を振り返ってみたいと思います。
お好きな項目に飛べる目次
お好きな項目に飛べる目次
兄と共に徳川数々の戦場へ
前述の通り大久保忠佐は、大久保忠世の弟です。
武家で”兄弟”というとイヤな展開を予感しますが、大久保兄弟については問題がない……と言いますか、むしろ兄も弟も立派すぎるぐらい。
生まれは天文六年(1537年)で、家康より5歳年上でした。
あまり関連性はないですが足利義昭と同い年です。一説には、豊臣秀吉もこの年の生まれだとか。
忠佐は次男という立場もあってか、忠世と行動を共にすることが多く、以下のように家康の主な合戦に参列しておりました。
天正十年(582年)本能寺の変
このうち【一言坂の戦い】に面白い話が残されています。
一言坂の戦い
一言坂の戦いとは、徳川軍vs武田軍の合戦のひとつで、三方ヶ原の戦いの前哨戦にあたります。
西上する武田軍に対し、天竜川の渡河を防ぐため家康も自ら出陣。
徳川軍は、武田軍の半分前後の兵力しかありません。
そこで戦闘が始まってしばらくすると、家康は撤退を決断し、大久保忠佐が本多忠勝と共に殿(しんがり)を務めるのです。
敵軍を背後で引き受けなければならない殿は、死と隣り合わせの非常に危険な役割。
しかし忠勝だけでなく、実は忠佐も「生涯の合戦で一度も傷を負わなかった」という共通点がある猛将とされます。
結果、二人は無事にその務めを果たします。
一言坂の戦いでは忠勝に著名なエピソードがあり、どうしても関心を奪われてしまうため、忠佐の印象は控えめになってしまうのでしょう。
大久保忠佐が通常のメジャーリーガーだとしたら、本多忠勝は大谷翔平選手みたいなものでしょうか。もしも同じチームにそんな人物がいたら、どうしたって影に隠れてしまいますわな。
また【長篠の戦い】でも、こんな逸話が残されています。
この戦いでは兄の大久保忠世と共に戦っていたところ、主君の同盟者である織田信長の目に留まり、わざわざ家康に「あの二人の武士は誰だ?」と尋ねたというのです。
「大久保家の兄弟で、金の蝶の旗は兄の忠世、浅黄の黒餅は弟の忠佐です」
家康がそう答えると、信長はこう褒めたとか。
「膏薬のように敵に張り付いているな。見事な戦いぶりをする奴らよ!」
そして信長は『士を育てることにおいて、俺は家康に及ばない』と感じたとか。
確かに、信長は才能の芽を育て上げるよりも、既に花開きつつある人物を身分問わず抜擢することのほうが得意なように思えますね。
忠佐は日頃の言動や人柄に関することがあまり伝わっていないようですので、謹厳実直な人物だったと思われます。
※続きは【次のページへ】をclick!